別役実さんを偲ぶ

★写真は公園に咲く水仙の花です。
★別役実さんが亡くなった。随分長く御病気と闘って肺炎で亡くなられたという。
★もう57年も前の話になるが、京都の八坂会館で行われた別役さんの処女作「象」の再演で男2の役をやらせていただいた。
★相手役の男1はキャストが足りず鈴木忠志さんがやった。
★男1 こんにちは。
男2いいおてんきですね。
男2 そうですいいお天気てす。
男1 空が青い。
男2 そう。空が青い。
というセリフのやり取りが続く。
★19歳で大学2年の私は当時早稲田の劇団こだまとトラブルを起こし、現役ながら早稲田の自由舞台を卒業して結成された「新劇団自由舞台」に所属を許されていた。
★初演の「象」は俳優座劇場で1962年か3年に上演され、その再演として京大創造座の協力の元に八坂会館で上演された。
★その舞台で私は緊張しすぎて、セリフを一気に半ページ程飛ばしてしまい、あっという間に男1の鈴木忠志のステッキで打倒されてしまった。
★担架で舞台袖に運ばれるたった15秒の間が地獄のように長かったのを今でも鮮明に覚えている。
★帰ってきた京大の寮の片隅ででしずみこんでいると、演出の鈴木さんは近寄ってきてポンと肩を叩き、「タカヤくん、まあ、色々あるけど、気をおとすなよ」と慰めてくれた。そのことが私をいたたまれなくさせた。
★いつも鬼のように怒る演出がこの時は優しかった。この旅公演には別役さんは同道されなかったと思う。
★翌年だったか、都立北園高校の文化祭に呼ばれチェホフの短編3本立てをやった時、そのつなぎの漫才のような進行の別役さんの自筆の脚本を今は亡きミツカンスの御曹司岩味正臣と2人で演じた。
★独特の字で書かれた原稿用紙をなぜ捨ててしまったのか、あるいはなくしてしまったのかがくやまれる。
★別役さんはそのころ稽古にはあまり来られなかった。ただ劇団でやる総会(渋谷のウイーンとか馬場の田園等のクラシック喫茶)では鈴木さんといつも演劇論の大論争をしていた。
★私は何を彼らが語っているか全くわからなかった。
★これではいけない。と考えた末、「新劇」「テアトロ」「悲劇喜劇」の古本を買ってきて、1日1本読むことを自らに誓った。
★それから1年、別役さんと鈴木さんの話がほんの少しわかるようになった。
★やがて、新劇団自由舞台は早稲田小劇場となり、私はやめた。劇団「こだま」にもどり、演出に専念して、やがて浪人の長い日々を送る。
★そして、何年も後、劇作家協会で別役さんと再会した。別役さんは全く私の事は覚えていなかった。
★私はあの頃の事、別役さんが劇作家になり始めたころの話から、何回も話し始めた。
★「あ、そうなんだ」と何回も乾いた声で答えてだが優しかった。
★福岡での第一回劇作家大会でも講座をおねがいしたり、北千住のシアター101で脚本アーカイブスのイベントをやっていて、ばったり会ったときは、ご自分のミュージカルをその場で手配して見せてくださった。
★まさか自分が劇作家になって、ラジオやテレビのドラマを書くことになろうとは、漠然と役者になれるかなー無理かなーと考えていたあの頃の自分は、別役VS鈴木の大論争がなかったら、400本もの脚本は読まなかった。
★いわば今日あるのは、別役さんの存在していたからともいえる。
★アンチテアトルから影響をうけ、演劇変革の第一人者であることは間違いないが、「象」の俳優座での初演と名取事務所での最後の作品には、生な決して乾いてはいない、別役さんの叫びと思いとを感じるのである。
★別役 実さんありがとうございました。安らかにおやすみください。 合掌。
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