おおつごもり

★写真は東京青山大晦日の夕陽です。
★さて本日は我が家の恒例により、年に一度の青山墓地への墓参りです。
★戦時中3歳まで麹町にいて、慶応病院で生まれ、墓地だけは青山墓地というのがほんとうに下らない唯一の自慢で、後は信州須坂から清水、静岡と流れ流れて、また東京へ流れ着いたズタボロの人生ではありますが。
★おじいちゃんの先見の明のお蔭で、墓参りはいつも近くて便利です。
★ただ、近いのにしょっちゅうお参りに行かない親不孝、ご先祖不孝者ですが、そんなこんなの毎年で、いつしか自分がこの墓の中に入り、この空を墓の下から眺めるのも、すぐそこに来ていると思うと感慨深いものが有ります。
★「土の下からこの空を毎日見る日も近いな」と小生が言うと、リアリストの家人が「ここにはいないから、ここからは見ないよ」と言います。

★「じゃあ何処へ行くんだ」「素粒子になるんだよ」「宇宙の塵が・・・・」そう思うとなんか気が楽になったような気もして、なんとなく納得します。
★大晦日はつらい思い出ばかりで、子供の頃冬休みは蒲鉾工場で大晦日まで働いて、魚のはらわたを引き裂くので、銭湯に入っても生臭さは抜けなくて、ある年は花屋のおばさんのリヤカーを押して、街を歩いたり、そうして稼いだ金でつるしのジャンパーを1枚買ってもらい、後は父に残りのお金を全部貸して(決して返ってはこない)一年が終わる。
★夜紅白歌合戦がラジオから聞こえてくる頃になると、付けで1年間おかずやコメを買っている店の小僧さんが玄関のあがりかまちにすわりこみ「俺だって少しでももらって帰らないと親方に怒られちまうんだよ」といい。
★母はそれでもささやかな正月の煮物料理を造りながら「上がって家探しすればいいでしょう!無いったら一銭も無いんだから」と怒鳴り返し。
★その間、父は酒は飲めない人なので、静岡の町を自転車で寒風の中さまよっていた。
★勿論昭和30年代は喫茶店等というしゃれた物はなく、しかも大晦日は早じまい。
★「いつまでそんな事を・・・・」と回想録のトラウマに浸る小生を見かねて家人は言うけれど、借金はあったにしても、借金取りが押しかけてこない大晦日に、紅白歌合戦を見る事が出来るのは本当に幸せな大晦日(おおつごもり)で。
★やがて、ラジオから「ゆく年くる年」の寺の鐘が鳴る頃には、借金取りの小僧さんも姿を消していて、父もいつの間にか帰ってきていて、年が明けている。
★一家に一台白黒テレビが入る頃の話である。
★さて、今日の話に戻る。例によってスタートの遅いわが家が墓参りに出かけたのは午後3時で、北風は、今年を象徴するような猛烈な勢いで、ゴミや枯葉を巻き上げて舞っていた。
★外人ばかりの街を抜けて、まばらな電車に乗って帰り着くと、それでも紅白は始まっていたが、ほっとした。幸せなだと思えた。
★だから、どんなに下らなくても紅白だけは、なんとなくダラダラとして見る。見られることの幸せを感じながら。
★今年は芝居ができなかったけれど、なんとか生き延びた。
★毎年来年こそはと思うけれど、生きるっていう事が本当に大切だと思える1年だった。
★なぜなら昨年公演の稽古中、見つかった前立腺の癌が、何の治療も手術もしないのに消えた、という奇跡を体験したので、こんな幸せはないと思える1年だった。
★この奇跡の原因には、FBを通じて遥かイタリアにいる高校同期の方の、指圧の仕方のアドバイスが利いたのと、芝居を造るというストレスがなかったということしか考えられない。
★やはり生きているうちが華なのだから、来年は本当に何かやろうとおもう。【命あってのものだね】とはよく言ったものです。
★皆さま良いお年を!
★おやすみベィビーまた来年。
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