独善的演劇論

★写真は「風と雲と魂と」―シベリア鉄道の晶子-の一場面です。
★これからは独善的に演劇論を少しずつ書いていこうと思います。
★その1 何故演劇は義務教育の授業とならないのか?
★美術・音楽・体育が、義務教育の授業として古くから散りあげられているのに、演劇は何故授業にならないのかと疑問に思った方はありませんか?
★「あんなものは授業で教える価値はないよ、趣味の領域だから」という考え方がほとんどではないでしょうか。
★これだけ、いじめが社会問題になり、其の解決方法がない今、演劇はそのキーを握っていると思います。
★現にアメリカなどでは、プレイングゲームを刑務所の受刑者の矯正の一助として使われていて、その効果を示しているという例もあります。
★現にマフィアの家庭に育った人間が相対する組織の人間を殺し、全く罪の意識のない者に、例えば順番に演じさせて、被害者の兄弟の役を演じさせることにより、初めて、自分が殺した相手の家族の気持ちが分かるようになったり、という効果を上げています。
★これほど想像力や仲間との協調性の必要な演劇が、何故学校教育で使われないのか?
★それはどの芸術どのスポーツにもある、基礎と言う物がバラバラだからです。
★そうです。演劇はそのプロジューサー・演出家・その劇作家によって、皆それぞれ別個の方法論を持っているからです。
★音楽も舞踏も絵画やスポーツも、全て基礎に関しては同じです。ドレミファソラシド以外の音階はなく、野球のゴロの打球、をとる時は、膝を開いて、腰を落として、股の真ん中でボールを取る基礎から始まって、色々変化し、それは前衛になったり、コンテンポラリーダンスに発展していくのです。
★しかし、演劇だけは、A氏とB氏とC女史によって、基礎から言う事が各々違うからなのです。基礎の違う物をバラバラに学校教育で教える事は出来ません。
★この稿長くなるので、本日これまで。
★おやすみベィビー、また気が向いたら。
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