引っ越しの産物

★写真は昭和24年の小生の通知表。
★引っ越しは時としてとんでもない物を発見することになる。忘却の果てにあって、しかも何十年も引き出しの底に眠っていたものが蘇る。
★わが家は、小生大学2年の頃事情あって、静岡から県営住宅の家賃を踏み倒して、当時横浜の東横線の菊名という丘の上の6畳のアパートに夜逃げをしてきた。。
★昭和37年頃1962年と思う。6畳間にその時6名。小生は東京で女と同棲していたが、私を除く4人の兄弟と両親が6畳間のアパートで暮らしていた。
★そんなところに荷物などはいらないと思うのに成績表があったのである。
★昭和24年とある。長野県須坂の小学校である。
★その後、小学校3年から転校した清水市三保小学校、静岡新通り小、同安藤小、東中学、静岡高校全部の成績表が有った。
★これは、教育ママであった私の母が犯人だ。
★そんな状況で、多分5人分の子供の成績表や卒業証書をしっかりと持って引っ越してきて、それから東村山の今とは別の廻田町という、教会の教師の学校の寮で、父が管理人になるまで、抱えるように母が持っていたのだ。
★私は普通の人間と違いマザコンではなく、、勉強と学校の成績にしか重きを置かない、母を憎み続けていて、其の所為かマザコンの逆で、ドラマの中でも鬼のような母を描き続けてきた。
★母のお蔭て、コンプレックスの塊で育ってきたのだった。その母が、唯一芝居の道に進むことを許してくれた。
★そのお蔭て、曲がりなりにも今日の小生がある。それは感謝している。
★随分前になるが、母を亡くしてみて、今更ながら、成績表を風呂敷の中に持ち続けた、母の執念を感じた。
★ぼろほろの黄色い紙の通知表には、感傷以上の何かがある。
★当時は5段階評価で0が真ん中の+1+2・0-1-2の評価である。通信欄は何も書いてない。素晴らしい男の先生だったのを覚えているが、1年と2年3年は別の先生だった。
★成績はまあ、0よりも多少プラスが多いが見せられたものではない。
★それにしてもと又思う、夜逃げをして横浜の6畳一間にやって来た母の唯一の持ち物が、多分子供達の成績表だったのだと思うと、切ない。
★たまに引越しをして、自らの引きずってきた荷物の重さを知ることも大切なのだろうか?
★本日これまで。お休みベィビー!また気が向いたら。
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