
☆写真は夏の夕焼けと富士です。でも今日の富士ではありません。1ト月程前の夕方の光景です。これには訳があります。
☆昼過ぎ電話を奥様から頂き、劇作家の小松幹生さんが、今朝(8月12日)5時に亡くなられたという。
☆ある程度覚悟はしていたが、ビツクリしてしどろもどろの応対になった。
☆先月お見舞いに行った時は薬の副作用の為頭を剃っておられたが、お元気で「1人部屋から医局が離れているという事で、6人部屋へ移されて、戯曲の構想がうまく考えられない」と元気にこぼしていらっしゃった。
☆痛みを抱え、様々な症状を抱えて、なお、次作の構想を練っているという姿に打たれた。
☆またお見舞いに来ようと思っていたが、まさかあれが最後になるとは思ってもみなかった。
☆人生にはいろいろな方と出会い、又別れがある。ただその中で自分の人生に、ものすごく影響を受ける人が何人かいる。
☆小松幹生さんは、小生が29歳の頃「八騎人(ハツキジン)」という劇団を仲間と立ち上げた時、雑誌テアトロの編集長兼劇評も担当されていたと思う。
☆その年1972年8月、都心から神奈川にある多摩川べりまで1時間ほどかけて稽古に行き、冷房もない稽古場で上半身裸で汗だくになり、演出していた。役者も踊り、狂ったように動きまくる芝居でそれは大変な代物だった。
☆それが当時西荻窪の観音ホールで打った、旗揚げ公演の「難破船」ー幻のマラソンダンスーという芝居だった。
☆夏の旗揚げである。終わって何のコネもなく、たまたま観に来てくれた小松幹生さんが、この芝居を絶賛に近く秋の「テアトロ」誌上で褒めて下さった。
☆これがなかったら、私はこの年73まで芝居をやることはなかったと思う。
☆こういう出会いは色々とある。芝居が出来なくて相談すると「天の時があるので、、あなたが放送の方で頑張っていれば必ず芝居が出来るようになりますよ」と言って下さった井上ひさしさんも随分前に鬼籍に入られた。
☆「いやあ、高谷さんとこの故郷の諫早へ来ると天国ですね」と笑っていた故市川森一さんの笑顔も忘れられない。
☆またラジオの師匠である伊藤豊英さんが会った初めに「ラジオドラマ書いてみるか?」と言ってくださった一言も忘れられない。
☆もちろん伊藤さんはまだ矍鑠として元気である。
☆ここには書ききれない程の恩人や、自分の生きていく進路に出会って、その後きっかけを与えてくれた人はいる。
☆それにしても小松幹生さんは後にとてつもない劇作家となられてからも、いつもにこにこして接していただいた印象は忘れられない。
☆結構短気だという噂も聞いたが、私の前で怒った顔を見せたことはない。
☆でも一つだけ言うと、小生と嫌いな人が同じだった。そのことはお互い余り他の人には言わなかったが、何か共通の秘密の趣味を持っているようで楽しかった。
☆よく小生の芝居を観に来てくださった。にもかかわらず小松さんの芝居はあまり見なかった。それが唯一残念だった。
☆本当にわたしはあなたが好きでした。劇作家としても尊敬していました。
☆心よりご冥福をお祈りします。
☆『花に嵐の喩もあるさ、サヨナラだけが人生だ』それにしても寂しい・・・・本当に
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