誕生日何度目の?

★写真はSF+1の読み稽古風景です。
★さて、本日(もう昨日になるのですが)3月26日は小生の誕生日でした。
★この年になって誕生日といってもロスタイムのカウントダウンみたいなもので、来れば来るほど嬉しくもなんともないものでありますが。
★何年前からか、FB等をやり初めまして、おかげさまで、50人くらいの方から誕生日を祝うメッセージを頂きました。
★人間は勝手なもので、返事を出すのが大変という事はあのますが、自分の事を気にかけてくださり、祝っていただくのは本当にうれしいことで、もしも天涯孤独な状況になっていて、SNSなどを一切していなかったとすると、誰からもお祝いの言葉ももらえず、こんなに寂しい思いはないと想像します。
★ですから、本当にうれしいことであり、こんなに誕生日は嬉しいことなのかと思います。
★ただ、SNSというかFBの仕掛けがよく分かっておらず、メッセージを送って下さった人だけに返事を書いたつもりなのに、よく調べてみると、FBでつながった人の全部に知れ渡るようになっていて、そのことがわからずに書いているような始末であります。
★今から73年前の昭和18年3月26日、戦時中の午前0字10何分ぐらいかに、小生信濃町の慶応病院で生まれました。
★当時の住んでいた住所は四谷区麹町1の6で、今の麹町警察署の斜め前の辺りです。
★父方の祖母が行政書士を(昔は代書屋といっていた)やっていた関係で、麹町署のすぐそばに住んでいたのです。
★父方の祖父は5.15事件で殺された犬養 毅首相の書生で、犬養さんの命を受けて、祖母と2人満州に渡り、地図をつくっていたそうであります。
★今でいうとスパイの走りみたいなもので、先祖を語る時何やら中国の人達にすまないことをしていたような、後ろめたい気持ちになるのです。
★というのは、精密が地図があって、その後に侵略という行動があったのですから、直接関係ないとはいえ、何とも片腹痛いような感じがします。
★勿論祖父は自分の仕事に誇りを持っていて、時代が時代であったと言えばその通りなのですが。
★ついでに触れると、母方の祖父は無教会主義の内村鑑三さんの愛弟子で、畔上賢造といい、「ロマ書の解説」等の代筆を行ない自分でも畔上賢造全集を出していました。
★いわばスパイと基督者の祖父の血を引くわけで、猜疑心と信仰心の隔世遺伝の産物のようなものが小生である。
★まあ、そんなことはあまり関係のないことで、人間育ちがほとんどと思われるが、父が戦後仕事に失敗し戦後の荒波を乗り切れず、20数種の職を転々としたので、まあ考えられる限りの最低の貧乏生活で、なんとかラツキーが働き、ここまで生きて来れたという有様であります。
★ただ、父方の祖父に感謝しているのは、青山墓地を借りてくれたことであり、生地と墓地だけは、都心の一等地であるという、生まれと死に場所(いや正確には死んだあとの場所)だけは唯一の自慢にもならない自慢なのであります。
★それがどうした!と突っ込まれそうなのだけれど、どうせブログという物が半永久的に残るのであれば、自分の根拠だけは書き残しておきたいというのもロスタイムが残り少なくなってきたという事なのかもしれないので、お許しを。
★午後劇団員の北村が大量の衣裳を車で運んできてくれた。入れ違いに小生は出かけたが、とにもかくにも素晴らしい誕生日ではありました。
★本日これまで。お休みベィビー!また明日。
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