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下北沢という街

向本番6

★写真は’60~18ロクレイ・イチハチ―1960年君は18歳だったーの舞台です。 撮影 向 操

★さて、本日はB.LET’Sの公演「家族カタログ」を観に下北沢の小劇場楽園へ行ってきました。

★5年前に確かこれは下北沢の「劇」小劇場でやった作品の再演という事で、かなり書き直したらしいのですが、初演より数段優れた舞台になっていました。

★家族とそこにくさびのように紛れ込んできた他人との織り成す舞台で、どちらかというと、小生は苦手というか芝居としては扱いたくないジャンルの芝居なので、好みではないのですが、芝居としては大変コンパクトに仕上がった会話劇と思いました。

★滝本 祥生率いるこの劇団は実に精力的に芝居をやっていて、本当に力をつけた芝居を打つようになったことはこの上なく喜ばしいことです。

★下北沢は1981年の12月にスズナリで八騎人として「振り向くな次郎長」を上演し、1983年の3月には「命短し恋せよ乙女」を4劇団合同公演でやはりスズナリで上演しました。

★1981年の時はまだ本多劇場も出来る前で、オーナーの本多さんも観に来てくれて絶賛してくれました。それが83年の4劇団合同公演につながっていったのだと思います。

★手元に資料がないが鳥獣戯画やその他2つの劇団との4劇団それぞれが全然別の芝居を連続的に公演しました。

★あのころの下北沢は今のような演劇のメッカではなく、本多さんが下北沢を芝居と劇場の街にしようと頑張っていた草創期で、そういった空気の中で実に情熱的に舞台を造っていました。

★下北沢という町自体も未だ幼少期のように素朴な街で、実に創造的な道の半ばにある希望にあふれた街でした。

★ところが今は、駅そのものが地下深くに潜って、ホームに降りてから、延々とエスカレーターで5分も上がらなければ改札口にたどり着かないような、実に人を馬鹿にした街になってしまいました。

★この町にはもはや何かを創造するという希望も夢もエネルギーもなく、ただ既成の例えば演劇の銀座というような街になってしまいました。

★いつも思うのですが、こういう魅力もない、人が観劇するにも実に不便な土地で演劇をやろうとするのかが、小生には分かりません。

★これは銀座というブランド<下北沢という演劇ブランドの劇場だからと勘違いしているからなのでしょうか?

★それだけは分かりません。1980年初めの下北沢は、いい意味での西部の開拓地のような雰囲気があり、であるからこそ、其処で芝居を打つ必然性があったように思うのですが・・・・

★こちらが年老いたせいか、長いエスカレーターをのぼったり、帰る時は長い階段を下りたりしながら、その不自由さの中で、下北沢の何処がいいのだろうと思ってしまいました。

★勿論劇場を選ぶのには小劇団はまず経済的に劇場がどうかとか、お客が観に来やすいかどうかとか、舞台の使い勝手がいいかというようなことによって劇場を選びます。

★ただ、劇場を選ぶという事はその町(あるいは街)を選ぶという事でもあります。

★それを本日は痛感しました。

★あっ言い忘れましたが、10年程前に「劇」小劇場で「オデュセウスの涙」ー家に帰りたいーを1回上演しました。この時はすでに下北沢は青年の街という面影はありませんでした。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。
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theme : 今日の出来事
genre : 日記

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プロフィール

G.C(グランド・キャノニオン)

Author:G.C(グランド・キャノニオン)
G.Cことグランド・キャニオン・ビリーブ・ミーこと高貴な谷、つまり 高谷信之のこれはブログです。

G.C(ジードットシー)は1972年からNHKラジオドラマを約80本書き、映画、テレビ中学生日記等主にNHkのシナリオを手掛ける。【ラジオドラマ】「枝の上の白色レクホン」では、芸術祭大賞をとり同じく『天主堂』ではギャラクシー賞優秀賞をとる。
また若者たちと劇団ギルドを1999年に立ち上げ、20年続け、37回公演で2018年秋解散した。70代後半に向かい、演劇のプロジェクト、あくなき、小説・演劇・シナリオの挑戦創造に賭けており、また日本放送作家協会の理事は岩間良樹理事長の時代より20年以上続けた。
他に長崎県諫早図書館・壱岐未来座等のシナリオの書き方、演劇の演出講師、指導等もしている。

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