私と演劇 64 1992年 その2テレビドラマ

★写真は5月の夕焼けです。
★さて、この年は本当に忙しい年だった。多分1991年の年末から始まったかと思うが、NHK名古屋制作の「中学生日記」の脚本を書かせてもらう事になった。
★第1回目は帰国子女を扱った作品で、名古屋のNHKへ行き、ディレクターのSさんと打ち合わせをして、東京の大泉学園の高校に取材に行った。
★そして帰国子女が皆にいじめられるというテーマで作品を書いた。名古屋では、出演を含めて30名程の実際の高校生を集めていて、その中の数人から話を聞いて、いじめの実態や実体験も取材した。
★結局私の書いた脚本のラスト「わたしは信じられません」と先生に帰国子女の女生徒が不信感を露わにして背を向けて去っていくという本を書いた。
★当時問題を起こした生徒が30分番組の23分頃に美術室等に呼ばれて、生徒が涙を流して改心するというパターンが「中学生日記」の定番であった。その定番から大きく外れた、私の書いた脚本のラストは問題になった。
★「高谷さんこれは中学生日記ではありません」と言われた。私はひるまなかった。もし首になっても、ラジオドラマがあるというのが当時の心境だった。「たった30分でいじめの問題が解決するとは思いません。第一毎回生徒が反省して涙を流すというパターンは嘘じゃないですか」等と生意気な事を言った。
★随分と言い争って、そしてラストは両者の妥協点を取る事となった。いじめられた帰国子女は「先生にはお世話になりました。でもわたしは信じられません」と言って先生は呆然と立ちすくむという結末だった。
★以来中学生日記が少しずつ変ったとしたら、ほんの少し私は貢献したように思う。
★それ以外にも随分私は生意気に思われたと思う。閉所と暗所恐怖症のわたしは、いきなり名古屋で「ホテルを変えてください」と申し出た。最初に案内されたホテルは古く狭く灯りを目いっぱいつけても暗かったのである。
★ホテルは少し離れた明るいホテルに変えてくださったが内心「生意気な、こいつは何者なんだ」と思われたと思う。
★ともかく1993年1月の末には本は完成し、1993年4月18日(日)の13時~13時35分に放送された。
★1992年たしか夏だったと思う。NHKTVの中四国スペシャルという枠があり、「風・二人」というスチールドラマを中国四国の5県の若手ディレクターのオムニバスで造ることになった。
★岡山・松山・徳島・山口・広島と次々に回って、各ディレクターと所によっては山の中や海辺へ取材に行き各15分のドラマの打ち合わせをして各地を廻った。
★唯一失敗したのは、各話のそれぞれの締切を同じ日にしてしまったことであった。当時はまだパソコンのメール等というものがなくて、ファックスと電話での第一稿以後の打ち合わせとなった。
★それがそれぞれ違う話、5本の打ち合わせが重なって、それはとんでもないことになった。
★またこの取材旅行の間に次のラジオドラマの締切が迫っていて、ちょうどワープロに切り替えた後だったのだが、ドでかいワープロを持って行くことは当然不可能である。
★原稿用紙と鉛筆を持って行き、四国や山口のホテルで、打ち合わせと飲み会の後に書こうと思うが、ほとんどはかどらなかったのを覚えている。一度キーボードで書く事にしてしまうと、簡単に鉛筆と原稿用紙には戻りづらいのである。
★広島で1992年の暮れの数日ホテルに籠り、20日頃に決定稿をあげた。すると、そのまま拉致されるように松江に行くことになり、ラジオドラマを書く事となった。「小さな妖精」という作品で、松江に2泊ほどして、ラフカディオ・ハーンの取材をし、25日頃にやっと東京へ帰ってきたと思う。
★何しろ、この年あたりが一番小生の売れていた年と思う。49歳、体力も気力も充実していたように思う。
★長くなったので、「風・ふたり」のTVドラマについては次回に又記す。
★本日これまで。お休みベィビー!また明日。
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