私と演劇50もしくは映画7

★写真は中央公園の緑です。
★私と演劇50 「私と映画7 観客として」
★さて、高校生になり受験期が迫り3年になっても、私の映画鑑賞は終らなかった。この頃印象に残っているのは何故か松竹と大映の映画だった。
★その前に勿論東映の時代劇から日活の裕次郎や旭の映画は誰もが熱狂するように当然のように通過した。
★でも多分それは中学生の頃だったように思う。特に日活の映画はとにかく映画館の中の扉が閉まらないほど、人々がおしかけ、背の低い中学生の小生などは1回立ったままで、じっと大人の後頭部を1時間ほど見てやりすごし、次の入れ替えで、左右の通路になんとか入って、躰の側面を椅子のひじに押し付けられるようにして、躰をねじりながらやっと見るという程のすさまじい混雑だった。
★高校になってからは、大映の増村 保造や市川 昆の映画をよく見た。京 マチ子、叶 順子、若尾文子とか川崎敬三、船越栄二,市川雷蔵などが活躍していた大映のいわば黄金期である。
★松竹は木下恵介の惜春鳥とか、わりに青春群像を描いた映画が多く、その後に大島渚の「愛と希望の街」や篠田正浩寝吉田喜重等のいわゆる日本のヌーベルバーグと言われる作品も観た。
★東宝の映画は特にマキノ雅弘監督の「次郎長物」や早撮りで有名な渡辺邦男監督作品。川島 雄三の映画「縞の背広の親分衆」とか成瀬巳喜夫の「浮雲」や豊田四郎の「夫婦ぜんざい」等文芸作品など片っ端から見ていた。勿論黒沢 明の「7人の侍」には度肝を抜かれたし、「用心棒」や「隠し砦の3悪人」等も観た。
★そして高校になって変わったのはフランス映画やアメリカの西部劇を見るようになったことである。「サスカチワンの狼煙」「駅馬車」「真昼の決闘」そして文芸作品では「愛情の花咲く樹」のモンゴメリー・クリフトの二枚目振りに驚いたりした。
西部劇ではリチャード・ウィドマークのような渋い俳優が好きだった。
★エリアカザンの「エデンの東」でジェームス・ディーンを初めて見た。でもジェームスディーンが好きになったのは私は「ジャイアンツ」の方だった。エリザベステイラーを、油田を掘っている掘立小屋に招くシーンや、石油を掘り当てて、狂ったように狂喜するシーン、エリザベステーラーの娘に思いを重ねるシーン等が心に沁みた。
★その孤独な姿を見たいためにあの長い、作品としては2流の「ジャイアンツ」をビデオやDVDで何度見たことだろう。
多分何度も見直した回数では私の中で一番になるかもしれない。
★女優ではエブァ・マリー・セイント(「北北西に進路を取れ」にもヒロインで出ていた)とか正反対のグラマーなフランス女優サンドラ・ミーロ等が私のお気に入りだった。
★中でもちょっと毛色が違って印象に残っているのは、イブ・モンタンの「シャンソンド・パリ」だった。これは本当に歌と踊りのエンタテナーとしてのシヨーを映画を通して初めて見た作品で、以後自分の中で歌と踊りによるショーという物への嗜好が目覚めさせられた作品であった。
★フランス映画のジャクりーヌ・ササールの「河は呼んでいる」とかパスカル・プチ・ミレーヌ・ドモンジョ等青春物とかコメディーが盛んな時代であった。その後にトリフォー・ゴタール・ミケランジェロ・アントニオーニ等のヌーベルバークの時代がやってきたのである。多分この波がやってきたのは高3から大学1年くらいの頃だったと思う。
★ハリウッド映画ではビリー・ワイルダーの喜劇や当時はやりだしたシネマスコープによる「十戒」や「ベンハー」更にはヒッチコックの「サイコ」には震え上がり、隣に座っている知らない大人の女の人が、例の振り向きの瞬間に小生の手をキャーと言って思い切り握ってきたことが忘れられない。
★とりとめもなく、作品の羅列になってしまったが、その頃の人並みにビビットな感情に影響を与えたのは様々なジャンルの映画であった。今の若い者がゲームの中に居次元の世界を作りそこに入っていくように、私はほとんど貧困が織り成す喧嘩に明け暮れる家庭の現実の辛さから逃れて、映画を観ていた。
★当時中学生2人の家庭教師をしながら高校に通っていたが、今考えると、それにしても赤貧の状態でよく映画の入場料をあれだけ払えたという事が不思議でならない。続きは次回にする。
★さて、本日はやはり、何かと気に掛けるアビのいない生活が始まったばかりで、調子が狂う。
★例えばベランダの戸をアビが出ないようにすぐ閉めたりとか、転々と部屋を移動するアビを探したりとか、バターが好きなので、(バターの塩分が猫にはよくないので)こちらがパンにバターを付けて食べる時は、そっとアビに気づかれないようにしたりとか、様々な事がなくなり、ちょっとしたことに戸惑うばかりの日々が続いている。
★本日これまで。お休みベイビー!また明日。
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