私と演劇45もしくは映画3

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台写真です。 撮影 向 操
★私と演劇 「45 映画4今村昌平監督との縁」
★さて、随分と前のことである。人生と歴史にもしもあの時とかは常に虚しい思い込みに過ぎない。
★ただ1968年小生25歳の1月に、青の劇場という演劇ユニットを立ち上げラ・シーヌの「ブリタニキュス」を上演したという事は以前書いた。
★この年の3月今村昌平監督が「神々の欲望」という映画を企画し、それに合わせて、助監督を1人見つけることとした。
今でいう処の助監督オーディションである。
★何のつてが有ったのかは忘れたが、小生この試験を受けた。最初は論文の試験があった。はっきり覚えてはいないが「欲望」あるいは「私の欲望」というようなテーマで論文を書かされた。
★試験場には多分100人程の応募者がいたと思う。論文の試験に小生は合格して、最終審査の4人に勝ち残ったのである。
★同じ日かいいや、日を改めてだったと思うが、その残った4人の面接が行なわれた。
★狭い応接室のような暗めの空間で、今村昌平監督を初め浦山桐男監督等20人程の試験官に囲まれて面接が始まった。
★この面接で、私は浦山監督が粘っこく少しからみ気味に質問してきたのに、ちょっと反抗的に声を荒げて反論してしまった。
★それは親の事を聞かれ、戦後の経済成長の中で取り残され、貧乏を強いられた父の事を語った後のことだった。「そんな、お父さんを君は軽蔑しているのか?」というような質問が浦山監督から来た。「いいえ、尊敬しています」と私が言った。すると浦山監督は「それは矛盾しているじゃないか」と絡んできた。
★小生は「軽蔑して反面教師にしているところもあるが親子だから尊敬もしている」と答えればよかったのかもしれないが、なんとなく絡むように言って来た監督のいい方にカッと来てしまったのだ。若かった。
★そして「いえ、矛盾はしていません!」と切り返したのである。それから2,3激しい言い方のやり取りがあり、言いながらこの時ああ、駄目だろうなこの面接はという思いがあった。
★それともう一つ、当時私は身長167Cm体重47.5Kgであった。マラソン選手がそうであるように、本人としては充分に
持久力もスタミナもあり、誰にも負けない体力が有ったのだけれど、やはり人は見かけの印象に頼る。多分ヒョロヒョロで、体力も根性も無いように思われたのだと思う。
★その証拠にその時受かって助監督になったのは、後に「太陽を盗んだ男」とか3本程の映画を撮った長谷川和彦という身長も180くらいあり、偉丈夫な男であった。
★その時は最後の4人までせっかく残ったのにと本当に悔しい思いをしたが、やせ我慢ではなく、あの時受かっていなくて良かったと思っている。受かっていれば映画の道に進んだかもしれないが、これだけのラジオドラマやテレビドラマを書いたり、芝居を何十本も演出することは出来なかったと思うからである。
★ただ、浦山桐男監督の映画は好きだったので、その面接の場で口論のようになってしまったのは残念に思った。
★映画については本編の脚本も書いたりもして、その後ある役者のデビュの役割を担ったりもしたのだけれど、それらの事は次回以降に・・・・
★本日は六本木の脚本家連盟で、脚本家ニュースの校正に行ってきた。
★アビがまた日替わりの寒暖の差のように、昨夜は鳴きっぱなしで、家人も小生も睡眠不足でくたくたである。
★今日は水も飲み食べ物も食べて、おとなしくしているが、心配な事である。
★ちょっとした雷雨があったが、やっと東京は晴れて、気温も20度近くまで行ったらしい。ただ、夜はこの辺はめっきり冷える。
★本日これまで。お休みベイビー!また明日。
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