私と演劇44もしくは映画3

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台写真です。 撮影 向 操
★私と演劇 「44 もしくは映画3 相米 慎二2」
★さて、「ションベンライダー」の小生による事前演技指導が終り、映画は1982年夏撮影に入った。
★最初は横浜の運河沿いの道などでの撮影が始まった。八騎人の麻倉淳子が出演することになり、当日撮影について行った。倍賞美津子さんの出るシーンのからみだったと思う。
★それから3日後くらいだったか、小生も出演することになり、横浜近くの食堂の前の道路に出ることとなった。
★主人公の少年たちと先生役の原 日出子が食堂で語っているシーンで、そのガラス越しに理髪店が使う青と赤のまだら模様の円筒の看板が見えていて、何故かその看板に仕掛けがあり、レールが弾かれていて、道路を看板がゆっくりと行ったり来たりしているという構図の絵である。
★私の役はその遠景の床屋の看板の前を、片足に包帯を巻き松葉づえで通りかかる男だった。男はつられるようにその行ったり来たりする看板に魅入られて、必死に右左と追いかけるというシーンだった。
★時間にして、3分もなかったかもしれない。しかも遠景なので、物語の筋とは関係がない。しかし、「このシーンは絶対カットしませんよ」と助監督がささやいた。
★なぜならその左右に動く理髪店の円筒の看板とレールにはそれだけで100万の予算をかけているから、簡単にカットはされないはずだと助監督は言った。
★真夏の炎天下、リハから本番にかけて、私は大量の水を飲んだ。そして、ヨーイスタートが掛かったとき必死に私は円筒の看板を追って松葉杖で3往復程歩いていた。
★私の額からは滝のように汗が滴っていた。たまたまその撮影を出番はないが見ていた藤 竜也さんが、終わってロケバスで着替えをしていた私の処まで、わざわざやってきて、バスの入り口のステップに足をかけて、「お疲れ様です」と声をかけてくれた。
★撮影の後で監督はにゃっと照れたように笑いながら「なんかやってたね」とぼそっと私に囁いた。私は満足した。
★そしてやはりそのシーンはカットされず、DVDにも入っている。
★その次の日、別の役で熱海へ行き撮影という事になった。しかし、湯河原の辺りの野外の撮影が延びに伸びて、結局行った日は撮影がなく、日帰りのはずが熱海に一泊泊まることになった。
★相米監督の長回しは有名だった。カメラは2台から3台で撮るが、1シーン1カットで15分~長い時は20分程の長回しで撮る。
★私の知る限り普通監督は、カメラマンとの打ち合わせや構図の事で撮影に時間がかかる。だが相米監督は違った。カメラマンはほとんど、あの場合、田村 猛さんに任せて、もっぱら役者(特にこの映画は少年少女が主役の映画だったので)へのダメ出しで時間を取る。
★したがって、スタッフも2つに意見が分かれる。そのことを良くわかっている助監督や何回も一緒にやっていたスタッフはそのやり方を尊重するのだが、初めてついたスタッフは構図も決まり、撮り方も決まっているのに、近所の食堂や喫茶店に役者を隔離して長時間出てこない監督にいら立ち「おい、これは何待ちなんだ!」と怒鳴る。
★そうしたスタッフをなだめるのが、相米組助監督の第一の仕事だった。
★そうやって、粘りに粘って、相米監督は素晴らしい映画を作っていった。
★ほとんど巨匠の域にまで達し、異色の作品を撮っていた彼が、あんなに早く逝ってしまったのは残念でならない。
★時々、彼が生きていれば、今頃どんな映画を撮っていたろうか等と考える。
★熱海では市の職員のような役で出た。いずれにしろ、相米監督とは不思議な出会いであり、貴重なたった1つの仕事であった。
★今当時の永瀬 正敏君や坂上 忍君。河合美智子さんが活躍しているのを見ると懐かしくも嬉しい。
★またあの作品で狂気のような役を演じていた、藤 竜也さんが、近く北野たけし監督の映画「龍三と7人の仲間たち」という映画で主演しているのは素晴らしいことでもある。
★本日はここまで。続きは次回。
★おやすみベイビー!また明日。
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