私と演劇39

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台写真です。 撮影 向 操
★私と演劇 「39 小劇団のチャレンジ」
★さて、此の正月芝居で分かったことは、当たり前のことながら人のやっていないことをやれ(当時正月の2日から7日という期間で芝居をやるということが、小劇場ではなかった)という事と、やはり芝居は口コミによってお客が増えるという事でした。
★ただ1点、高円寺の明石スタジオで、盆をまわすという仕掛けを望み、それを本にも書いたもので、装置の担当のBさんともめてしまいました。
★彼は言いました、「帝劇や日生劇場ならともかく、明石スタジオで盆を回せ?冗談じゃないよ」私は言い返しました。「帝劇や日生劇場で盆を回すのは当たり前だよ、盆がしつらえてあるんだから。明石スタジオで盆を造って回すから面白いんじやないか」と。
★出来たことは出来たのですが、以来Bさんとは仕事をしなくなりました。例え予算はギリギリでも、ギリギリのところで冒険をし、常識を打ち破らない限り芝居をやる意味はないのです。
★三百人劇場でやった「泣け昭和、魂の涙きらめかせて」の芝居の時でした。
★これは養老院を抜け出した老婆が、深夜、比叡山にのぼり、山頂近くのトイレの中から現れて始まるという芝居で。
★芝居の一番最後は、一切の装置が一瞬にして無くなり、ホリゾントの前に養老院のテレビが1台だけ置かれているという脚本でした。
★その装置を手掛けたTさんは、ありきたりの五個のトイレを横に並べた、まあごく普通のプランを作って図面を書いて持ってきました。
★そのプランを見て、作・演出の私が「ふーん。いいよこれでいく?」と言ったのです。ところがTさんはその私の反応が気に入らなかったと言って、「よし、台本通りに作りましょう。そのかわり役者はちょっとやりにくいですよ。」と言い残し、次のプランを持ってきたのです。
★そのプランとは直径3センチ程もある鋼のワイヤーで、平台を全部簀子から釣り上げて作るというプランでした。
★芝居の最後のシーン、三百人劇場の梁にワイで釣り上げられた舞台は、見事に何もない空間を作り出し、そこにテレビが1台ポツンと置かれ、その前で、養老院に戻された老婆5人が中々終わらない昭和を嘆いて「長いねぇ―昭和」と言うのでした。
★確かに安定の無いワイヤーで釣られた平台の上で、そのほとんどを演じる役者も大変でしたが、Tさんのお蔭て、1978年当時としては画期的な舞台を創る事が出来たのでした。
★時流れ、平成になってから劇団ギルドで「恐竜はやがて鳥になった」という芝居で、(暗転が終わり20台のノートパソコンが一斉に開きその光が溢れる)という芝居を書いたのですが、予算もなく、パソコンも用意できず、たった四台のノートパソコンが光を放つというラストになってしまい、演出としては本当に悔しい思いをしたのを覚えています。
★これは駄目な例ですが、小劇団は常に戦いであり、真の演出よりは劇団や客演の間のもめごとや、役者のモチベーションを何とか一致させて高めていくという演出以外の事が多すぎる演出ごとの中で、芝居を造っていかねばなりません。
★蜷川さんのように、「ラスト、そこに百台のブラウン管が出現するんだよ」と言いさえすればそれが舞台に実現するというわけにはいかないのです。
★だからこそ、我々小劇団は金も力もない中で、ギリギリの工夫をします。それなのに「あのスライドを使うというのはいいけれど、くどすぎるな」等とたまにおっしゃる事情の分からないお客さんもいらっしゃるのです。
★あくなき、挑戦とたぐいまれな冒険心。そしてしなやかなで柔軟なこころがなければ、小劇団は何年も続けたりは出来ません。
★この続きは次回。
★本日は四月なのに雪が舞う。四月だから関東地方は雪が舞いやすいのか?午後、月に一度の日脚連の「脚本家ニュース」編集の日。
★夜は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」に出演してくれた臼井さんの出る芝居を池袋に観に行きました。
★芝居についてはここでは触れません。臼井さんは若いのに的確な芝居をしていて、素晴らしい演技でした。
★本日これまで。おやすみベィビー!また明日。
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