私と演劇33

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。
★私と演劇 「33 小劇場から大劇場へそして危機」
★さて、300人とかの大ホール(本来は小ホールなのかもしれないけれど、我々にとっては大ホールなのです)で公演を打ち赤字を出しては借金返しに時間がかかり、2年程公演が打てない日々が続きました。
★そして、大久保の小さなアトリエや、新宿の厚生年金ホールの近くにあった小さな小屋で公演を打つ事が続きました。
小屋が小さい所為なのか、それとも筆力が落ちていたのか、決まって小劇場でやる芝居は脚本自体に力とはっきりしたテーマがなく、さりとて、コメディーは下手と来ているので、何とも八方ふさがりの時期でした。
★ラジオは脚色が多く、アメリカのサスペンスを原作とした「摩天楼の身代金」森本 レオさんや氾 文雀さんの出演のアドベンチャーロード枠15分10回とか今西祐行原作の「肥後の石工」等の作品を書きました。
★そしてこの頃1975年頃から密かに取材をし、温めていた義経伝説の話を1980年に八騎人として上演することとなります。
★その作品が今年1月29日~2月1日迄、座・高円寺1で上演した「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の初演を舞台で、1980年7月16~20日の5日間当時の労音会館で行なったのでした。
★作品としては十分な取材と充分に書き直したので、いい舞台になりました。当時佐藤 信や唐十郎の音響を手掛けてくれていた優秀な音響の市来 邦比古さんも本を読んで、スタッフとして参加してくれました。
★舞台も多くの優秀な客演を集め、特に「発見の会」の牧口元美さんとの出会いはこの作品でした。後に八騎人では主演女優となる麻倉 淳子もこの公演から参加したのです。
★舞台としては成功したのですが、悲しいかな莫大な赤字を背負うことになりました。当時出で20万円ということですから、大変な金額です。今では到底無理ですが、ただ、その頃は印刷屋とかスタッフもなんとか借金を待ってくれたという風潮がありました。
★その後2年間、多分1982年頃までは借金返しだけで、芝居は出来なかったと思います。
★貧すれば鈍すで、借金を抱えると、劇団員の様々な本性も見えてきます。その頃は東中野の方に中野勤演というアマチュア劇団と協同で地下室の稽古場を借りていました。互いに折半して稽古場代を払っていました。
★公演日程は大体調整して、われわれは昼間稽古で、夜アルバイト。中野勤演は夜稽古という仕訳でした。
★公演をやるやらないにかかわらず、7,8人で稽古場代と借金を分担して払っていたのですが、皆苦しいのに、お金にルーズで払わないやつとか、遅れて例えば小生が立て替える奴とかが、出てきます。
★こうしたことが、不仲、不具合を生み出し、次第に人数も少なくなってきました。
★そして、この頃、ギャラの入る児童劇の劇団の仕事をやりだしたメンバーが、皆を誘い、ギャラが出るならと、なだれ込むようにそっちに流れて行ったのでした。ほとんど八騎人はつぶれる寸前になっていました。
★続きはまた次回。
★本日はこれまで。お休みベイビー!また明日。
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