私と演劇31

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。
★私と演劇 「31 絶体絶命のピンチ」
★ラジオドラマは「灰とダイアモンド」を書き上げた頃だと思います。
★事情で中止になった演劇集団円からの仕切り直しの要請がありました。「セピア色した雨祭り」という舞台を書き上げ、当時新橋にあった円のアトリエで作・演出をすることになりました。
★主演は故 仲谷 昇さんで、三谷昇さんが日程的に出演は出来ないけれど、装置を担当してくださることになりました。
もともと三谷さんは文学座の演出部からスタートした方で、絵とかセットの考案も得意の分野でした。
★後に三谷さんとは何回か小生のラジオドラマに出演していただいて、これまた本当に深く素晴らしい演技をする方です。
★舞台稽古の日に丁度入院されていた芥川 比呂志さんが退院され、アトリエに観にいらっしゃいました。仲谷さんはもう芥川さんがいらっしゃっているという事だけで、ものすごく緊張されて、最終的な私の舞台稽古でのダメ出しはもううわの空の様でした。
★勿論私も緊張はしましたが、やはり演出は明日本番の舞台の事が気になり、芥川さんがお見えになっていることはそれほど緊張の種にはならなかったのです。
★ただ、後日電話で、劇団員に「中々面白い芝じゃないか、ああいう試みをどんどんやりなさい」とおっしゃって下さったという事を聞き、この言葉がどれほどその後の芝居をやっていく上で力になった事でしょうか。
★そういえば、芝居のできない頃、24、5歳くらいでしたか、日刊石油ニュースという業界紙に勤めていた時があり、毎日通産省をまわり、その頃はセキュリティーの全くない頃だったので、誰でも通産省の石油関連の課長の席などに入れたものです。
★そういう処へ飛び込みで行くのですが、中々新しいニュースが取れず苦労していたのですが、毎日夕方、地下室の社へその日取材した原稿をもちより、まとめて、校閲されるのでした。
★それを担当している人が、元朝日新聞の仙台支局長で、太宰治の従弟という人でした。その方が、何度となく、私の文章をほめてくれて「君は文章がうまいねー」と言ってくれました。
★自慢のようでいやなのですが、芥川 龍之介の息子さんである芥川 比呂志さんに芝居を褒められ、太宰治さんの従弟に文章をほめていただいたことは、本当にそれ以後の支えになりました。
★それがと゛うしたと言われれば、それまでですが、嘘のような本当の話です。
★ラジオドラマと円の芝居と次に八騎人でやろうという芝居が、ずれながらも見事に重なってきました。
★しかも仮契約していた市ヶ谷の小屋が使えなくなって、弱り果て、日程を詰めて、駒込の三百人劇場で芝居をやることに変更を余儀なくされたのです。
★300人劇場は思いの他言葉通り客席の多い、300人入る劇場で使用料も高く、途方に暮れました。
★そんな色々な事が重なり、ある時左背中の辺りが冷たい風の塊が、いるような感覚になって来ました。随分ほっほ゜っていたのですが、あまりに痛いので、病院へ行くと、胃潰瘍と十二指腸潰瘍を併発していて、即入院しなければ、駄目だと医者に言われました。
★ここで入院したら、せっかく軌道に乗ったラジオドラマも、大手の劇団円から依頼の芝居も出来ず、みずからの劇団も公演中止になり、なにもかもが、瓦解してしまいます。
★絶体絶命でした。プロとして生きていけるか否かの瀬戸際だったのです。
★私は医者に必死で事情を説明しました。今入院したら何もかも失うと・・・・「死ぬよ」と医者は言いました。
「例え死んでも今は入院できません」と私。
★結局医者が折れて「だったらこれから毎日病院へ通いなさい」と言いました。
★私は毎日通い、毎日太いマジックインキの長いやつ位の太さの注射を、そう40日程通い打ってもらったのです。
★2か月程経った頃別の医者で検査をしてもらったところ、胃潰瘍と十二指腸潰瘍はすっかり治っていて、私は暗い絶望的なトンネルを奇跡的に抜け出すことが出来たのです。
★その後300人劇場で上演した「泣け昭和、魂の涙きらめかせて」という芝居はもう死ぬかと思いつつ書いた作品の為、一種異様な開き直りと、死に対する暗い洞察がリアルで、いまだに元NHKのIにさんには、「あれが最高で、あれを超える作品は書けていない」と言われる始末です。
★ともかく病を乗り切り、やっとのこと私は次のステップへ行くことになりました。
★本日これまで。お休みベイビー!また明日。
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