私と演劇22

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古場の風景です。
★私と演劇「22 早稲田を離れて」
★さて、早稲田を完全に横に出た小生は、仲間を募ってラシーヌの「ブルタニキス」という芝居を上演しました。会場も今は覚えていません。新宿近くの初台あたりの小さなホールのようなところでした。
★その頃創作劇自体がまれで、突如自由劇場 佐藤 信の「地下鉄イスメネ」というチラシが早稲田に貼られて、これが同期の男であると知って何故かまぶしい思いをしたくらいです。
★新劇団自由舞台からはもう心が離れていました。自由舞台からの卒業生のこちらの後輩が、鈴木忠志から呼び捨てで呼ばれて、小生はいつまでたっても「高谷くん」と鈴木さんから君づけで呼ばれていたという外様的感覚と、もう一つはモンシェリと言う小さな喫茶店の上の小さな劇場で芝居を始めた事の違和感が私にはありました。
★何はともあれ、芝居としては当時の私にとって、3時間あるいは3幕のスペクタクルな芝居がやりたかったからです。
★しかしブルタニキスは何とか芝居になったものの、思ったほどの手ごたえはなく、赤字も出して、たちまち集団としては破たんし「青の劇場」と名乗った集団はたった1回の公演で終わってしまったのです。
★その時小生23歳。それから29になるまで、約7年間芝居とは一切の縁を切りました。と言うより、芝居事体が出来なかったのです。
★出来ないとならば、一切の芝居は見たくありません。
★私が芝居を止めていた間に、早稲田小劇場・自由劇場から黒テント・状況劇場の赤テント・早稲田の教育学部の上に居た「仲間」という劇団の一つ年下の東 由多加を取り込んだ寺山修司の天井桟敷等が一気に人気を得て、アングラ全盛の時代が゛来ていたのです。
★やがて、7年後29歳になったとき、民芸・文学座・俳優座・俳優座の衛星劇団・葡萄の会・東京芸術座ぐらいしか劇団の無かった演劇状況のの勢力図は見事に変わっていたのです。
★23から29歳までの漂泊の様子は芝居とは関係がないので、後日語る時まで取って置きます。
★あるきっかけから私は再び芝居をやろうと決心するのですが、その話はこの続きへ。
★本日、家人がガラケイをスマホにするというので、小生がドコモショップへついて行ったら、割引があるよと勧められてスマホを又買い換えてしまいました。やれやれ。
★その後奥山さんすなわち立川 侊しんさんの落語を聞きに四谷のコタンへ行ってきました。 せんだ みつおさんも来て喋り、楽しい一時でした。
★本日これまで。お休みベィビー!また明日。
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