私と演劇21

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。
★私と演劇 「21 早稲田での演劇」
★さて、こうして早稲田で6年の間に5本の作品を演出したのですが、大学とは卒業するところで、決して住み着くところではなかったので、結局再入学までしたにもかかわらず、全部で36単位しか取れずに私は早稲田を首になりました。
★稽古場は後に劇研から出火して全焼してしまった旧21号館の裏の長屋にあったものですから、高田馬場の駅から歩いて行って、戸塚一丁目の路地から21号館裏の部室と稽古場のある長屋へ折れ曲がって通っただけで、戸塚坂を下りて右手の文学部の校舎へ顔を出す事はほとんどなかったの6年間でした。
★役者としてはゴーリキーのどん底の役者の役や、石原慎太郎作の「狼生きろ豚は死ね」の平木 圭吾役とか、3分程舞台に出てちょっと笑わせて引っ込む役などをやりました。
★そういえば新人歓迎会で木下順二の「3年寝太郎」の寝太郎役をやったのですが、舞台上で何かのはずみで笑い出してしまい、笑いが止まらずに苦しくなって、涙が止まらなくなったことなどがありました。
★また地方公演は仙台へ行き「御料車物語」をやったり、九州の小倉・大分・延岡を3か所回る小林 勝作の「檻」の公演では、小倉に1か月泊り込みで制作の手伝いをやったりしました。
★その九州公演では装置と大道具プランもやり、大分の直撃台風の中、濡れながら裸にパンツ1丁でリヤカーで3×6にきっちりと重ねた装置のパネルを当時は開通した真夜中の列車にチッキで載せて、延岡に運んでギリギリ公演に間に合わせたりもしました。
★当時高速道路もなく、トラック便はなかったので、セットは蝶つがいで折りたたみ、3×6にきっちりして、チッキで送ったのも懐かしい思い出です。
★チッキといっても、多分今の若い方は何のことかわからないと思います。分からなければ60代以上の方に聞いてください。「チッキでセットを送るとはどういうこと?」と。
★こうして、学生演劇「こだま」と学生演劇上がりのプロ劇団「新劇団自由舞台」でもまれながら多くの事を学びました。
★セットのパネルはベニヤ板などがまだ普及していなかったので、目板で格子にして垂木で枠を取った板に、新聞紙を何回も貼って乾かし、何日もかけて3,4枚貼って、ベニヤ板よりもパンパンの硬い板を造りました。
★カラーペンキなどは普及していなかったので、との粉を塗り、その上に刷毛で丁寧に色を塗ったものです。全てが手作りでアナログでしたが、あれこそ芝居の原点だったと思います。
★さすがに効果音はモスクワ芸術座みたいに役者が袖で、動物の声も機械の音も真似してやるという処まではやりませんでしたが、ほとんどが手間をかけて、かけたなりの味わいが舞台には出ていたと思います。
★さて、早稲田を横に出て、その頃アングラとか小劇場の機運も全くない頃、一度だけあるホールを借りて公演をやりました。それは又明日の話とします。
★本日これまで。お休みベイビー!また明日。
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