私と演劇20

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。
★私と演劇「20 自由の最初の日」
★さて、早稲田の生活も5年目に入るのですが、再入学したにもかかわらず相変わらず授業には全く出ずに劇団「こだま」で芝居をしていました。
★ポーランドの作家クルチコフスキーの作品で「自由の最初の日」という作品を6月に演出することになりました。
★この時「自由の最初の日」を翻訳された、現神奈川大学の名誉教授中本 信幸先生と出会いました。
★中本先生には本当にお世話になり、後に出てきますが、ロシアのウラジオストック演劇祭に連れて行っていただき貴重な体験をしました。
★さてこの芝居は東欧の第二次大戦下の抵抗詩集を芝居の中に挟みながら上演しました。第二次大戦が正に終わった直後の芝居だったのです。
★その後私は一端芝居から手を引き高田馬場のバーでバーテンダーをしたり、池袋のバーのバーテンダーをしていた時期があります。しかし水商売はある意味緩くしかも昼間の仕事よりは少し多く稼げるので、人間が駄目になると思い、1年程でやめたのです。
★止めて、東村山という狭い処で生きている父に頼んで、ガソリンスタンドと米屋を経営している会社に社員として就職しました。
★もうすべて芝居は止めたつもりでした。
★しかし、芝居への未練が絶ちきれません。就職したガソリンスタンドを止める為には父のメンツを全てつぶすわけですから、家を出なければなりません。
★私はボストンバック一つで家を出たのでした。
★家を出て、後輩のアパートや先輩の家等を転々としました。しかし、客としてのいそうろは誰も3日が限度でした。4日目嫌な顔をされないうちに、当てもないのに「ありがとう。もう大丈夫だから」と言って友人の家を出るのです。
★ほんの少し持ってきた金は忽ち底をつき、アルバイトも決まりません。1日おきに学生食堂の素うどん1杯等という日が続きました。
★映画を観た帰り、急に雨が降り出し、帰るところがなく、本当に途方に暮れて映画館の前で降り続く雨をただ見ていた記憶だけが鮮明に在ります。
★あの時は何処に泊まったのかは覚えていません。勿論泊めてくれる女友達もいなかったのです。
★しかしその時私は芝居をやろうと考えたのです。秋でした。11月早稲田祭にエントリーすると若干の芝居の為のお金が出たように記憶します。プリーストーリーの短編小説を後輩の、後に映画監督になるHに脚色を頼み、こだまOBの出演者を説得して、1幕物の芝居にして、早稲田祭で上演しました。
★泊まる宿もなく、一銭の金も仕事もない処から、それでもささやかな芝居を造ったという自信はこの後大変な自信になりました。「やる気さえあれば芝居は何もないマイナスの処からでもやれるんだ!」という自信です。
★この経験は実に貴重な経験でした。勿論1人で芝居は出来ません、それを造る為にはキャストとスタッフの力なくしては成り立たないのですが、誰かが、何かを呼びかけない限り、芝居は何も始まらないのです。
★本日はここまでです。
★さて、本日は1と月半ぶり位に大泉の病院に定期検診に行きました。やはりというか残念というか、ヘモグロビンA1cは7.9まで上がってしまいました。血糖値173。あまりよくありません。やはり芝居で飲みすぎたのかとも思われます。
★昨夜童話作家の松谷 みよ子さんが亡くなったのニュースを聞きました。
★実はこうして大泉の病院に通っているのも、以前劇団ギルドの事務所は大泉学園にあり、事務所の大家さんが松谷 みよ子さんだったのです。
★約8年くらいの間に何回か会ってお話をさせていただいたことがありますが、実に優しく、温和な方でした。決して偉ぶらず、しかも教養と品格のにじみ出る素晴らしい先生でした。ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。合掌。
★本日これまで。お休みベイビー!また明日。
スポンサーサイト
theme : 伝えたいこと・残しておきたいこと
genre : 日記