私と演劇18回

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。
★さて、劇団「こだま」の演出と共に、新劇団自由舞台で役者をしていた頃の話をします。
★多分私が20歳の頃だったと思います。都立北園高校の文化祭に呼ばれてチェホホフの3作品「熊」「結婚の申し込み」ともう1作品(忘れてしまいました)を上演しました。その作品の間に2人の掛け合いがあり、それが繋ぎになっていました。
★その繋ぎの部分を、その頃劇作家として認められてきた別役実が書いてくれました。
★几帳面で割合ハッキリして角ばった字が400字詰の原稿用紙に書かれていました。今その原稿用紙を取って置いたら宝物になるだろうと思いますが、散逸して今はありません。
★ともかくその男1と男2を、亡くなったミツカン酢の御曹司だったI君とやったものです。今で言うコントのような台本で、なんとなく笑わせて、繋げなければならないと荷が重く、でも頑張ったのを覚えています。
★その頃鈴木忠志は「今の劇団はなあ、高谷君、こんな文化祭でもなんでもとにかく芝居をやって皆を引っ張っていくしかないんだよ」とポツンと言った事が忘れられません。後に世界の鈴木忠志になるのですが、こんな時もあったのです。
★劇団を2回持つようになってこの言葉はいつまでも繰り返し耳の中に蘇ってきます。
★そうです。劇団という集団はどのようにしても、どんな状態でも公演を打たなければ成立しないのです。しかしそのことは主宰者を常に苦しめる事でもあります。
★打ち続けること・・・・15年の間に33回打ち続けて来ましたが、これは本当に大変な事です。何の補助も助成もなしに(1回だけ都の助成金をいただきましたが)15年間打ち続けるという事は。
★さて、そんな中、劇団は時々7、8人が集まり、事務所とかはないので、たいてい渋谷とか高田の馬場のクラシック喫茶で総会(ミーティング)をやりました。
★こういう時やがて別れることになる鈴木忠志と別役実が、いつも真っ向から演劇論(演劇とか劇団のあり方について)でぶつかっていつまでも討論していたものです。だが、悲しいかな演劇的教養のない私には二人が何を言っているのかさっぱりわからなかったのです。
★これではいかんと私は思いました。いくら最年少の新人劇団員と言えども、話がさっぱり分からないのでは申し訳ないと
思ったのです。何とかしなければならない・・・・
★その時とにかく私は戯曲を読むことだと思いました。早稲田の古本屋で当時10円か30円だった演劇専門誌「新劇」「テアトロ」「悲劇喜劇」等の古本を何冊か買い求め、それを1日1戯曲読むと計画立てたのです。
★私はとにかく自分で決めたことだけは守ります。現にこのブログもブログという物は欠かさず毎日書くものだという決心を自分にしたので、2009年頃より、欠かさず毎日書いています。(3回程やむなくかけたけれど)
★人間自分が自分に誓ったことを破ったらおしまいという考えが小生にはあります。
★約1年半くらい、たとえ皆と飲んで酔っ払っても、或いは睡眠不足の時も、枕元に重ねて置いてある演劇雑誌の中に載っている戯曲を、たまたま手にした1冊の中の1つを毎日1本読み切ると自分に誓いました。
★約1年半の間4、00~450本戯曲を読むうちに、なんとなく鈴木忠志さんのいう事や別役実さんのいう事が分かるようになってきたのです。
★これは後に戯曲やドラマを書くようになった時に、どれだけ助かったか知れません。書く上での手本や師匠は私にはいません。しかし、500近くの脚本を若いころ読んだことが戯曲やラジオドラマテレビドラマを書く上で本当に役立ったと思います。
★もう一つ読売ホールという処で、エレベーターボーイのアルバイトを3年程して、そこで、同じ芝居を何日も観られたことがものすごく役に立ったのですが、それはまた明日か次に書きます。
★本日これまで。お休みベィビー!また明日。
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