私と演劇6

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。
★「6 演劇につかりすぎて」
★年一度の文化祭の演劇上演に明け暮れて、成績はとうとう最下位になってしまいました。
★静岡高校は当時県下一の受験校で、テストの成績はその頃、1番~360番まで廊下に張り出したものです。
★小生は3年の志望校を決める頃、あるテストで347番。その後ろの13人は当時甲子園で決勝まで行き後に巨人に入った柴田の擁する法政二校に決勝で負けた野球部のメンバーと、熊本工業と決勝の試合をしたバスケット部の生徒しかいませんでした。
★ということは全国大会で頂点まで上り詰めた者を除いて、小生はテストの成績学年最下位という事でした。
★おまけに本来就職しなければならない経済状況で、中学生の家庭教師のアルバイトをしながら高校へ通っていたという現状でした。
★それでも進路決定の少し前、ラッキーな事に父が東京に就職が決まりました。
★ただその成績ではどこにも行けません。
★役者でもやろうかと俳優座の養成所の要項を取り寄せてみましたが、新聞などの情報を見るとその頃のテスト(今でいうオーディション)はどうやら男子は海水パンツ1枚でのテストの様で、ガリガリの躯(167センチ・47Kg位の体重)ではとうていおいつかないと受けるのは止め、俳優になるのは断念しました。
★大学の演劇科を調べると、早稲田と日大の芸術学部と明治しかありません。そこで無謀にも早稲田の演劇科と日大の芸術家を志望したのです。
★さすがに偏差値がまだない頃とはいえ、担任の先生から「天下の早稲田をなめるな!」と叱られました。そうなると火が付く性格「死んでも早稲田を受けます!」「勝手にしろ!」という先生とのやりとり。
★どう考えても受験校とはいえ東大は浪人を入れて6人程。早稲田20~30人京王20~30人が毎年の平均合格者数。
347番の成績の人間がどう逆立ちしても受かる道理は何処にもなかったのです。
★それでも、運よく1文は落ちましたが、早稲田の2文と日大の芸術学部に受かりました。偏差値も足切などない良い時代でした。
★当時授業料が1年間で36000円。早稲田の方が日大よりとても安かったのと、日大の試験は○×式のテストで、試験当日風邪の為39度の熱を出て、提出制限40分で提出したにも関わらず受かってしまったので、早稲田の2文(夜間部)に決めました。
★そうして上京し、父の住んでいた上石神井の4畳半のアパートに転げ込んだのでした。
★こうしてなんとなく演劇という方向に進む道を決めたようでしたが、まだ確信があったわけではありません。
★本日これまで。おやすみベイビー!また明日。
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