とりとめもなく…

★写真は空堀川のカモ達です。
★さて、横になると亡くなった親友Aのことが頭の中に浮かび、なかなか眠れません。
★明け方まで、本を読むが頭に入らず、ついに朝6時、やっと寝むって11時には目が覚めてしまった。
★とにかく、雑煮をたべて、残ったおせちを食べて、Aとかかわりのあった友人と電話で色々打ち合わせや話をする。
★通夜や葬儀に出席のための段取りをする。
★我が家では、基本的に縁起が悪いのでお祝いの袋は別として香典袋の買い置きはない。
★それらを整えに駅の近くまで家人と自転車で行く。
★帰りに空堀川を上って帰ってくる。
★喪中のはがきを11月に送ったのだけれど、漏れた方などの年賀状が沢山あるので、寒中見舞いの原文を書き、家人に編集を頼む。
★あまりに眠いので、家人がおせちの余りで作ったちらし寿司を食べた後、1時間ほど寝る。
★横になるとAの事を思い出してしまう。
★中学生の頃、正月は決まってAと映画館に行った。
★当時は静岡は映画は3本立てて、朝一番から正月は3館めぐる。9本の映画を観ると帰りはとっぷり暗くなり、さすがに疲れ果ててしまい、お互いに不機嫌になり口げんかしたり、やがて口も利かずに歩いて帰ることになる。
★それでも又次の日3本立て3館のツアーをやったものだった。
★そんなことを思い出しトロトロと1時間ほど眠る。
★その後、起きて宛名の印刷に追われる。
★それも途中で疲れてしまい、いったん終わりとする。
★こうして、1日が過ぎていく。
★Aの家に行きAと会ったのは昨年の2月の初めだった。諫早での講座の帰り、京都で一泊し、静岡でAの家に行った。
★Aは心臓と肺が弱っていて、酸素ボンベを吸いながら呼吸を正常に整えていた。
★少し立ったり動いたりしても、息が激しくなり苦しそうだった。
★5時間ほど彼の家で話して別れた時、心の中でこれが永久の別れかもしれないと思い、いや、そんな考えは彼の為にも自分の為にも良くない。きっとまた会えると強く念じたものである。
★彼は元来小生と違って理系の人間でスポーツマンでもあった。
★まだ躯が健康な頃は、静岡へ行くと必ずゴルフの打ちっぱなしに行って色々とクラブの振り方やフォームを教えてくれたものだ。
★テニスをかなり高年になってもやっていて、息が切れてきたので、これではいけないと、さらに運動量を増やしたという。
★そのことが後で裏目に出た。気になって検査すると、肺と心臓がもうかなりの欠陥を持ってホロボロになっていたのだという。
★子供も長男と長女と次女、みんな大きくなり、それぞれ立派に独立していた。
★若い頃、東京大手の電機会社を辞めて、難しい静岡の小さな同族会社で、電気工事の設計と営業でめきめきと力を発揮して、社長にまでなった。
★辛抱強く、明晰で、スポーツは得意で、なによりも男気がある典型的な昭和の男だった。
★あれは小生が26歳の頃だった。何の未来に希望もなく追い込まれていた頃、小生の生活を見るに見かねて家人が親を捨てて、家出をして来て、阿佐ヶ谷のトイレも共同の4畳半一間でとりあえず暮らすことにした。
★その時小さなトラックを借りて、静岡に帰った自分の姉の家財道具の冷蔵庫等を運んでくれたのもAだった。
★いわば私たちが二人で4畳半で同棲を始めた時の証人でもあったのである。
★一年後結婚届の証人になってくれたのも彼だった。
★当時の彼女と私達4人で途中の軽井沢まで新婚旅行のまねごとについて来たのも彼だ。
★軽井沢で別れた私たちは、私の小3の途中までいた須坂をめざし長野の小さな商人宿のようなところに泊まったのも忘れられない。
★そう、私たちはトイレも風呂もない4畳半からその家庭をスタートした。その証人であるAが亡くなった。
★共有する思い出を語る者がい亡くなるのはつらいことだ。何年前であろうと実際に有った現実は証人がなくなれば、単なる思い出の風景になってしまう。
★そして風景はやがて風化する。誰もそんなことが有ったなどと信じることもなくなっていく。
★そしてAはこのブログの読者であった。愚痴にも似た生活の記録はどこか酸素ボンベで吸入しながら読み続けてくれていた彼に向けていつしか書いているような気がしていた。
★「なんとか俺も頑張っている。お前も頑張れ、負けるなよ!」というつもりで。
★その彼はもういない。
★本日は長くなったので、これまで。お休みベイビー!また明日。
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