写真とビデオと言葉と……

★写真は「修羅シュシュシュ」の舞台です。
★さて、本日は「修羅シュシュシュ」の舞台写真の焼き付けの為、夕方駅近くまで自転車でインクを買いに行き、最初のシーンの焼き付けをやりましたが、余りの時間と量の多さに、一旦休止。
★DVDの方も画像の取りこみ方がまたわからなくなり、この方は家人が四苦八苦するも中々取りこめず、明日送りに。
★毎公演、芝居の終わった後大変な時間と労力がかかる。
★写真で言えば昔のようにチェックだけしてDPEに出せば、お金はかかるが、こんな手間はかからなかった。
★デジタルもこちらが下手なのか時間と手間が食い過ぎる。
★夜、たまたまTBSの2時間の和製ポップスの番組を久しぶりに見てびつくりする。
★なんともどの歌も詞がおそまつすぎる。
★説明的に生活と薄い心情を述べるものばっかり。五感にまるで響いてこない。
★最近の芝居もそういう傾向が強いが、イメージを喚起させたり、その拡がりを促したりする言葉というものがなくなり、言葉が衰弱している。
★言葉には本来、物や状態を想像させる本質があるのだが、昨今は言葉自体をただの説明としてしか捉えられないという造り手側の脆弱な事情が存在する。
★したがって、こうした言葉による説明に慣れ切った受け手の側は想像力をどんどん発揮できなくなる。
★例えば、芝居の宣伝の惹句にしても、まず携帯でその芝居のストーリーを綿々と送ってくる。
★どういう狙いのどういうイメージの芝居かと言う事を書いてメールで送って来た者は一人もいない。
★こちらが芝居を観に行くのはストリーを見にいくのではない。「どんなイメージのどんな狙いの芝居なのか」が一番気になるところなのに、大抵ストーリーしか書いてこない。
★事程左様に言葉が衰弱してしまっている。
★衰弱した言葉で歌を楽しみ、脆弱な言葉の芝居や小説をみせられたのではたまったものではない。
★誤解しないでほしい。演歌がよい等と言っているのではない。和製ポップスもかつては心に染みる歌がたくさんあった。
★「いい日、旅立ち、幸せをもとめて……」こうした詞は説明のようで、説明ではない。言葉の厳選と削ぎ落しがされているからである。
★言葉の衰弱は目を覆うものがある。
★言葉を扱う者は心して臨みたい。自戒を込めてほんとうにそう思った。
★本日はこれにてお休み。又明日だベイビー!
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