稽古は進む

★写真はピカデリーサーカスのイルミネーションです。
★さて、本日は昼稽古で、天使役の朗読の人達が合流した稽古でした。
抜き稽古の後、通し稽古をやり、素晴らしい芝居になる予感が満ちてくるような通しであった。

★明日稽古が休みのため後4回の通し稽古で、何処まで完成度を高める事が出来るか。月曜日からの稽古が正念場だ。
★さて、話は変わって、中学時代の塾の恩師が11月の26日に亡くなっていた事が数日前に分った。
ご親族により伏せられていたからである。
★今のように誰も彼もが行っていなかった頃、昭和30年代の初めに塾があった。
★成績の中々上がらない私を見て、極貧の中から、母はその塾に通わせてくれた。
★最初その先生は3畳程の長屋のようなアパートに奥さんと住んでいて、その部屋が吾々の教室となった。
★先生は時間を守る事。根性を据えて頑張る事を徹底的に指導した。成績はグラフに付けられ、発表され、Aクラス・Bクラスに生徒は分けられ、成績の悪いものは罰としてマラソンをさせられた。
★英語の教科書は最初のページから最後のページまで音読暗記させられた。
おかげて、中1の時最悪だつた英語は2年ではクラスで1、2を争うほどに伸びた。
★それから先生は小さな一軒屋に引っ越した。
★数学がだめだったわたしは特に早朝先生の自宅に、伺い、玄関で自習してから学校へ行ったものである。
★冬は必ず、わたしが行く前に火鉢に炭をおこしておいてくれていた。
★やがて、お子さんが生まれ、その女の子の名前を先生は3っつ発表して、吾々教え子がその三っつの中から、恵美子と言う名を選び名付け親になった。
★やがて、先生は東京の東村山と言う所の団地に引っ越して行かれた。
★われわれと別れる時が来たのである。
★実は先生は福島にいたのだが、奥様が結核をわずらった為、温暖な静岡へ療養をかねてやってきて、ヤクルトや新聞を配達しながら、塾をやっていたのだった。
★奥さんの病もいえ、先生は東京へ帰り、電気の配線設計の仕事に戻られた。
★全く偶然の事なのだが、東京へ移られた先生の住んでいた同じ団地にわたしは今居る。
★勿論先生はもう随分前に引っ越されて、今この団地は先生の居た頃からは建替えられ,元の姿は最早無い。
★だが、東京に越して来られて、2階ほど訪問した先生の住んでいた同じ団地に、わたしは今住んでいる。
★毎日行き帰り、かつて先生の住んでおられた棟の前を、自転車で通って我が家の棟へ行き来している。
★なんとも不思議な感じがする。
★そんな先生はもういない。
★時々考えるあの先生と、出会わなかったら、静岡高校も受からなかっただろうし、演劇もやっていなかったかもしれない。
★脚本を書くような自分はありえなかっただろう。
★人と人の出会いはなんという大変なことなのだろう。何人もの人間の運命を変えてしまう。
★時は容赦なく流れ、人の命は交代する。それこそが定めである。
★先生が亡くなれば、次は生徒だ。それが順序というものだ。
★先生よりも先に逝ってしまった悲しい女の生徒もいたが・・・・・・・・・
★佐藤先生どうぞ安らかにお休み下さい。僕達はあの感受性に富んだあの中学生の心のまま、先生に教わった事を大切に大人になりました。
★立派な大人になれたかどうかはわかりません。
★でも、みんな頑張って生きています。決して先生に対して恥ずかしいような生き方はしていません。
★ありがとうございました。さようなら先生。
★もうちょっと、われわれは頑張って、それから、そちらへまいります。
★これが、今日私がしたためた追悼日記だよベイビー!
スポンサーサイト