相米慎二との日々#3

★写真は2022年1月末、多摩湖から望む富士山の夕景です。
★無事に演技指導が終わり、相米監督の「ションベン・ライダ―」が撮影に入ったのは1982年の夏だった。
★本棚をひっくり返して、出てきた、西岡琢也・チエコ・シュレイダーさんの脚本「ションベン・ライダ―」の中に挟まれていた、スケジュール表によれば、撮影に小生と、最初に仲間と造った劇団八騎人(ハッキジン)の女優、麻倉淳子が撮影に呼ばれたのは、1982年のお盆の前後だったと思う。
★というのは、残っているスケジュール表と撮影したシーンがかなりズレていて、予定通りに撮影は進んだとは、とうてい思えないからである。
★その真夏のカンカン照りの日、横浜の運河べりの道で、昼頃、麻倉がたしか花嫁衣装で主人公の少年たちとすれ違うシーンを撮った。
★そして午後、近くの食堂を借り切ってロケが行われた。小生の出番である。
★原日出子さんと、たしかジョジヨ役の長瀬正敏・ブルース-リー役の河合美智子・辞書役の坂上忍が話をしている食堂の中から引き戸越しに見える往来に、大きな床屋の、青と赤のぐるぐる回るガラスの丸い看板が据えられていた。
★ちなみにあの青と白のぐるぐる回る看板は、昔は医者が散髪もやっていたので、静脈の青と動脈の赤を象徴しているという説もある。
★道路に置かれた看板がなんと、シュールにも、敷かれたレールの上を、ゆっくり右に移動したり、また左へ平衡に移動したりしているのである。
★その丸いガラスの看板の所に差し掛かった、片足にギブスをして、松葉杖をついた痩せた男(当時は小生47.5キロのガリガリだった)が、その動く看板につられて左へ行ったりまた戻ったりというのが、小生に与えられた役だった。
★勿論食堂の一番奥にカメラは据えてあり、開けっ放しにされた食堂の外の遠景だから、フィルムに映っているかさえ定かではない。
★まして、撮るには撮ったが、結果的にカットなどというシーンは、映画の世界では山ほどあることなのである。
★だが小生はそれなりにプランを立て、ヨーイ、スタートの声がかかる直前まで、用意した水を大量に飲んだ。(勿論あの時代ペットボトルの自販機等ない時代だった。)
★どうやって水を用意したのかはわからないが、自分で用意して、がぶがぶ飲んだ。看板に近づいてきたマツバ杖のどうでもいい通行人は、目をぎょろつかせ滴る汗をぬぐおうともせず、息荒く行ったり来たりした。
★勿論多少うなっても、マイクは食堂の中セリフを捉えているから、主人公たちの芝居の邪魔にはならない。
★ただ、映っているかどうかという問題なのだった。
★何回かの取り直しのあと、本番が終わり、助監督が寄ってきて、「大丈夫ですよ、ここはカットされません」と小声で囁いた「えっ、どうして?」と小生。
★「あのレール付きの床屋の看板、監督の希望で、あれだけで100万円かかって作ったんですから」
「100万?」と小生。
★「カットできないんですよ、プロデューサーの手前。だからタカヤさんきっと映ってます」
★なるほど助監督の言うとおり、DVDになっても、食堂越しに左右に汗みどろになって移動する、小生の姿は残っていた。
★それと、嬉しかったのは、たまたま出番はなかったのだが、そのシーンを見ていた藤 竜也さんが、通行人の台本に名前も載らない役の小生をねぎらって、終わって着替え中のロケバスのステップの所までやって来て、片足をかけ身を乗り出して、私に「お疲れさまでした」と大声で言ってくださったことだ。
★多分狂気のように汗だくで演じるガヤの芝居に、何か感じてくださったのだと思う。藤 竜也さんの大ファンでもあった私には、とてつもない感激の一瞬であった。
★相米監督も後で近寄ってきて、にやにやしながら「なんかやってたねー」とからかうように小生に呟いた。
★さて、寄り道ばかりして、相米監督の撮影のすごさやエピソードに中々至らない。これらの話は決して自慢話ではありません。
誤解なきように。
★若くして亡くなった偉大な監督と、小生の一瞬のすれ違った日々を書いたものです。
★次回は相米監督の撮影術など、小生の感じたことの本論に迫りたいと思います。
★長くなったので、本日これまで。お休みベィビー、また気が向いたら。
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