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私と演劇 63 1992年 ラジオドラマ等

5月22日夕景

★写真は何故か5月22日の夕景です。

★私と演劇 63 1992年 ラジオドラマ等

★さて、この年6月30日(日)23時10分~24時の50分にNHKFMシアターで、オリジナルの「砂漠巡行」という作品がOAされた。

★これは、1986年の4月、母とエジプト~シナイ半島を経由して、イスラエルを旅した体験を踏まえて、湾岸戦争に於いて、多国籍軍がイラクに侵攻した1991年1月時期に、入院している一人の中年の男の回想と世界の現実を交差させて描いた作品である。清水紘治・宝生綾子さんが素晴らしい演技をされた。

★多分これは、3月~4月にかけて書いたと思われる。

★そして、11月9日23時10~24時のFMシアターで、幸田 文さんの原作「崩れ」「木」という随筆からの脚色で「崩れ」という作品を発表した。

★これは、本屋でたまたま見つけたエッセイを、何とかドラマに成らないかと小生が提案し、実現して、シナリオハンティングて、新潟の小谷の方へ取材に行った。

★幸田文さんの見たがけ崩れを観て、その自然のもたらす荘厳かつ恐ろしい地の崩れる様を実感した。

★夏ごろ取材に行き9月に書いたと思う。この作品は白石加代子さんと、相撲の実況を担当している石橋省三アナウンサーの2人しか現れない芝居でだった。

★圧倒的に面白かったのは父幸田露伴の亡くなるところを、文さん役の白石さんが、これでもかこれでもかと感情を込めて泣き、そのすぐ後に葬送の列が行く様を石橋アナウンサーが淡々と描写するその冷静なしゃべりが好対照で、語りの妙というものが見事に出ていたと思う。

★そして、この頃はポスト日曜名作座という試みで、ラジオ深夜便に男女の役者2人~3人を基本としたドラマを造った。

★まず、ラジオ深夜便(この頃はラジオ第一放送でしか放送していなかった)アジアウィークとして深田祐介原作の新東洋事情を1小生が脚色して、1月25日22時30分~21時55分の25分間OAされた。

★11月25日「仮面海峡」・26日熱帯工場・27日商魂大陸前編・28日商魂大陸後編である。浜畑賢吉・篠倉信子が大人の芝居をした大人向けのドラマだった。

★これは多分崩れが終わってすぐ書いたのだと思う。

★この年はラジオドラマを随分頑張っていろいろ種類も方法論も違うものを書いたと思う。翌年からテレビとラジオの両方でかなり忙しくなるのだが、そのあたりは次回へ。

★本日は夜8時24分頃、小笠原の母島の沖5900キロの深い処で、マグネチュード8.5の大きな地震が起きて、このあたりも震度4近く行った。後に気象庁訂正深さ6800キロ・マグネチュード8.1

★、幸い震源が深かったとかで、電車が止まったがそれほどの被害はなかった。昨日は鹿児島の口永良部島が噴火したり、箱根は蒸気を吹き上げていて、日本列島もいよいよ不気味な状態になってきている。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。
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theme : 伝えたいこと
genre : 日記

ほっとした

2015-05-21 2015年5月22日 011

★写真はポピーです。

★さて、2週間前から気になっていたことがあります。前立腺の検査でPSAの血液検査をしていました。

★本日結果が出て、2.85という値。とりあえず前立腺の癌の可能性はないという事で、ほっとしました。

★やはり、この年になるといつ死んでもいいし、いつ死んでもおかしくないとは思っているのですが、やはり癌に対してだけはナーバスになり、結果が白と出るまでは暗鬱な日々が続きました。

★特に前立腺は肥大していて、夜中にトイレに立つ回数も多くなってきたので、と診察を受け、血液を採ってから結果の出る2週間は実に長い感じがして嫌でした。

★やっと結果が出て、糖尿病で良くないのは分かっていても、甘党の小生としてはソフトクリームで密かに祝った次第です。

★やっぱりなんだかんだと開き直っても、或いは寿命がすぐそこまで来ていても、命は惜しいものです。

★与えられた命の中で何としても、やり遂げようとしている芝居や小説その他のドラマだけはと思います。

★こういった結果が出るたびに、一つ一つの時を一日一日を大切にしなければと思うのですが、すぐダラダラとした日常に流されてしまいます。

★そう本当に時間はないのです。

★それと、本日やっと喉のひりつく原因がわかりました。2週間前から増えた前立腺の薬の所為だろうという事が。

★飲んでも飲まなくてもそれほど夜間の頻尿が変わらないので、薬を止めることにしました。

★これで最近右肩は調子がいいので、問題は夜中の頻尿とバネ指だけという事になります。

★まあ、こちらのほうも、ビールを飲んでその後大量なウーロン茶を飲んだりしなければ、1回か2回夜中に目が覚めることで、なんとか行きそうなのと、バネ指もかなり軽くなってきたので、今のうちに早く書く態勢にと思っています。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。

theme : ひとりごとのようなもの
genre : 日記

合同公演

2015-05遠くの三日月

★写真は数日前の三日月の夜の光景です。

★さて、本日は夜、八幡山のワーサルシアターへ芝居を観に行きました。

★TOKYOハンバーグとB.LET’Sの合同公演で、滝本祥生作・大西弘記演出でセーラー服とブルーシート」という芝居で、両方の劇団の芝居を観たことがあるので、その合同公演という事で期待しました。

★いい意味で化学反応が起きたような舞台で、難しいテーマを取り上げた芝居なのですが、うまくまとまっていました。

★元劇団ギルドに居た永島広美さんや、この前「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」に出てもらった土田有希さんがそれぞれの個性を旨く出していたと思います。

★終わって近くの居酒屋で、こちらも偶然一緒になった「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の出演者男のSさんや女のSさんとも合流して暫し歓談いたしました。

★ただ、八幡山のワーサルシアターは都心部に住んでいる人はともかく、吾が自宅からは大変遠い感じします。まあ、何処でやっても家からは遠いのですが、北千住より遠く感じるのはなぜでしょう。

★今日も蒸し暑い1日でした。

★本日これまで。お休みヘィビー!また明日。

theme : 今日の日記
genre : 日記

脚本家連盟の総代会

5月中央公園のポピー

★写真は中央公園のポピーです。

★さて、本日は六本木の事務所で、日本脚本家連盟の年に一度の総代会がありました。

★小生も総代の末席におりますので、参加しました。

★色々1年間の活動報告やら、収支決算表等また今年度の予算などありまして、1時間半ほど数字とにらめっこ。

★終わっての懇親会。数年ぶりに出席の方や、九州・北海道からの総代の方もまいりましての懇談・懇親の一時でした。

★終り頃、外へ出るともう真夏の夕暮れという態でした。気温30℃。まあ湿度はそれほど高くないとはいえ、すっかり夏という感じの一日でありました。

★気候の所為なのか、それとも年を取って唾液が出にくくなったのか、はたまた飲んでいる薬の所為なのか、糖尿病の所為なのか水を飲んで少し経つと喉の辺りがひりついて、乾燥してしまいます。

★仕方がないので、ボトルのお茶等を飲むのですが、15分ほどですぐ喉と上顎がひりついてしまいます。

★そのため、とにかく大量の水を飲むという事になってしまいます。まあ、脱水はしなくていいのだろうけど、あまりにも頻繁に喉が渇いて困ります。

★このところ、右肩の痛みは1週間程治まっていて、左手のばね指も、軽くなら左手をギリギリ握れるようにはなりましたが、次から次と健康に関する難問題をつきつけられまして、それが当たり前とはいえ、ちょっと憂鬱な限りであります。

★まあ、しかし、本日の総代会に出ると、72の私なぞはまだまだ若造で、80代で頑張られている方も多く、なぜか若返ったような気分にもなります。

★まだまだ駆け出しの小僧。頑張っていきたいと思います。

★本日これまで。おやすみベィビー!また明日。

theme : 日々のつれづれ
genre : 日記

展覧会

聳えたつ都庁

★写真は聳え立つ都庁です。

★さて、本日は午後、新宿の中央公園の中にある新宿区民ギャラリーへ行き、NHKでお世話になったIさんの所属する絵の会の展覧会に行きました。

★Iさんは5点の絵を出品されていて、創作欲旺盛な作品ばかりで、感嘆いたしました。

★同じくNHKOBの音響効果のKさんや技術OBのOさんも集まり、絵を鑑賞してから、Iさんと4人で駅近くのお店で久しぶりに飲みました。

★話は近況報告のようなところから、アナログからデジタルに変わってきたラジオドラマの世界の話となり、この方達は(小生も含めて)アナログだけのテープの時代からデ、ジタル機器による処理に移行していった時代にドラマを造っていったことを踏まえて。

★ドラマにおける音響の選択とか、各部門の、様々な変遷への話に入っていきました。

★例えば効果音は生で作るという時代から、デジタルで仕込まれた音の選択という事に移行していったわけで、そのことはモノづくりという事の中で極めて重要な事で、それにいかに対応していったかというような話にもなりました。

★我々脚本を書く者は、万年筆あるいは鉛筆からパソコンのキーボードを打つという変化だけに対応すれば事足りたのかもしれませんが、それでも大いに違和感が出たり、文章を過剰に書いて削るということや、場合によっては場面の差し替えが実に簡単になった分、推敲の仕方がいいかげんになったりといろいろありました。

★まして音や技術という事の機械的な進展もまた、人間のドラマを造っていくというところでは、大変な変革を余儀なくされたのであります。

★ただ、それ等を乗り越えて、ドラマの中身が発展したのかというと、そうとも言い切れない物があり、それは単にアナログとデジタルの間の問題なのか、それとも人間そのものの問題なのかと考えると結論が出ません。

★ただ、いずれにしろ、アナログの時代は、丁寧に丁寧にドラマを造っていたように思えます。

★ただ単に、昔は良かったという話にならなかったのが良かったと思います。

★皆さん引退されて何年にもなるのに、自分のやってきた仕事がなんだったのかと今でも問い返しているようで、楽しい話が出来ました。

★本日も夏日とやらで、暑かったのですが、湿度が低いせいか快適な一日でした。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。

theme : 日記
genre : 日記

チラシ造りその1

パンジー

★写真はパンジーです。

★さて、本日は夜、7月公演のチラシを作る為、劇団員の北村と長谷川が自宅兼事務所へ来てくれました。

★今までは得意な方に頼んで作っていましたが、今回はあえて、劇団員の中で作ってみようという試み。

★それぞれ多少はPCに精通はしているのですが、芝居のチラシとなると話は別。

★先日それ用に撮影した写真の選別から入り、デザイン・字体・ロゴマークの入れ込み等結構時間がかかります。

★6時過ぎから10時過ぎまで、悪戦苦闘して、なんとか方向が見えてきたところで、次回へという事に成りました。

★皆でカレーをいただいて、本日はお開きという事に成りました。

★題名は「アル・タルフ al・Trf」ー星に契りをーに決まりましたが、未だキャプションが決まりません。アル・タルフとはかに座のβ星でギリシャ語で「獅子の一瞥」という意味だそうであります。

★さて、題名は決まったが、脚本の中身である。苦しみながらの日々が続く。

★本日これまで。おやすみベィビー!また明日。

theme : 今日の日記
genre : 日記

私と演劇 62 1991年ラジオドラマ

2015-05中央公園からの眺め

★写真は中央公園からの風景です。

★私と演劇 62 1991年 ラジオドラマ

★この年はじめて、日曜名作座を書かせていただいた。これは森繁久彌さんと加藤道子さんが2人で様々な役に扮して、繰り広げていく、ラジオでは一番の長寿番組であり、1957年から始まり34年も続いているラジオドラマで、大変緊張した。

★ほとんどが名作座というだけあって、東西の名作小説を基本にしていた。私が脚色したのは阿久 悠原作の「飢餓旅行」という作品だった。

★一つだけ感心したことがある。阿久 悠さんは直木賞作家ではあるが、その前にヒット作を果敢に書いていた作詞家でもあった。作詞家という者は元来言葉を削って、削ってこれだというギリギリの言葉を選び詩にする。そうした訓練の上に書かれた小説だったので、どれ一つとして、言葉に無駄がなく、他の作家に比べて、脚色が楽だったのが印象的であった。

★脚色とはいわば原作を顕微鏡でその細胞を見るように丹念に観て、ドラマとして再構築して会話を書いて行くのである。

★そうなると当然原作の小説には無駄な言葉があったり、逆に言葉足らずの処が有ったりする。それを埋め、なおかつ会話だけで何とかドラマにしていく作業なのである。

★たいてい、好きな作家でも何べんも読み、ドラマにしていこうとすると、うんざりするほどの隙間が見えて来て、ドラマにするのに苦労する羽目になる。

★ところが、作詞で鍛えている阿久さんの小説は、それ自体ギリギリの言葉で書かれていて、ほとんど直すことなく、会話としてスムーズにドラマに成ったのである。これには驚いた。何人もの作家の脚色をして、色々直してきた小生としては改訂の余地なしの作品に初めて出会ったような気がした。

★内容は終戦後、瀬戸内海の島に住む実直な警官の処に長男の遺骨が送られてきたところから始まる。親父は休暇を取って、九州の実家の墓へ長男の遺骨を埋めてやるべく家族を連れて、船に乗り行く話の途中に神戸やその他の終戦後の人々と生活がきっちりと描かれてもいる名作である。

★この脚色の中に、闇市のマーケットの物売りの役が出てくる。台詞3ッつくらいの役で「安いよ、安いよ、いらっしゃい、寄ってらっしゃい」というような売り子の親父の役があった。

★当然男役は全部森繁さんがやるので、「こんなちっちゃな役やるかな、繁さん」とディレクターのUさんが心配したのだが、杞憂に終わり、収録では森繁さんは嬉々として、その焼け跡の闇屋の掛け声を圧し潰したようなすばらしい声色でやっていた。

★「飢餓旅行」は3月27日~4月の14日まで、各日曜日の21時05分~35分まで30分4回で放送された。多分書いたのは1月頃からだろうと思う。

★もう一つこの年は忘れられない作品がある。特集スペースアドベンチャーとして、6月3日(月)~21日(金)までの土日を除く15回梶尾 真治原作のサラマンダー・殲滅という作品の脚色である。

★この原作はSFとしても優れていて、とてもスペクタクルなスケールの大きい作品なのだが、なによりも人間の心理がきっちりと書けているのである。

★これは、もし、原作を知ってハリウッドが買い付け映画化したら、おそらくスターウォーズを超える作品になると思う。それぐらい中身の濃い素晴らしい原作であった。

★これは、しかし、15分15回が足りないくらいで、縮小していくのに大変苦労した記憶がある。塩田朋子・塩沢兼人等の他、以前八騎人の「魔都彷徨」の折、主役を依頼して、もう少しのところで断られた、青年座の杉浦 悦子さんが出演され、再会したという因縁の作品でもあった。

★記録に残っているのはこの2本である。またこの年から国際オーディオドラマ森繁賞という国際的なオーディオドラマの賞が1994年迄放送作家協会で行われるのだが、小生は次の年1992年から審査員として参加することとなる。その話は次回に。

★今日は夕方家人と自転車で空堀川を所沢街道の辺りまで、行き、島忠に寄って帰ってきた。

★近所の方からブルーレイとDVDの再生機をいただいたが、取説がなかったので、パソコンでダウンロードして、なくなってしまったというリモコンは、各社共通のリモコンを買ってきて、再生が出来るようになった。便利な世の中になったものである。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。

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genre : 日記

私と演劇61 1990年ラジオドラマ

矢車草

★写真は矢車草です。

★私と演劇 1990年 ラジオドラマ

★この夏8月20日~24日まで、ダミーヘッドによるラジオドラマ『恐怖の館』シリーズの5本を脚色し、1本をオリジナルで書いた。

★ダミーヘッドというのは、人間の頭部を模したマイクで収録し、それをヘッドホンで聞くと、時に左右の耳だけではなく、音が頭の後頭部の奥から聞こえてきたりする仕掛けで、スリラー物やサスペンスドラマにはもってこいのシステムであります。

★『恐怖の館』は半村 良原作の「蛞蝓(ナメクジ)」が8月20日放送・山村正夫原作の「武者人形」21日・村田 基原作の「山の家」22日・手塚治虫原作「鉄の旋律」23日・そしてこれは私の祖母から聞いた中国の怖い話(祖母は長いこと中国の武漢の近くに祖父と暮らしていた)でオリジナルの「山姥(ヤマンバ)」24日の5本を書いた。

★ホラーやこうした恐怖ミステリーは個人的にはあまり好きではないが、この仕事は本当に面白かった。それぞれに革新的な技術と工夫があり、脚本もそれに負けないように工夫を強いられたからだと思う。

★書いたのは多分5月~6月ごろと思われる。またこれらの5作品はカセットになって、NHK出版から売り出されて書店に置かれたが、あまり売れなかったようだ。

★ここでは円の三谷昇さんや青年座の今井和子さんが大変いい味を出していたし、後にテレビでも活躍する同じく円の、金田 明夫さんが頑張っていた。

★その年10月28日(土)にFMシアターで佐藤 健志作・「チングー・韓国の友人」という作品をシリーズ日本の現代小説という枠の中で脚色させてもらった。

★これは江澤さん演出の2回目の作品でもあり今は亡き金 久美子さんと、金田賢一さんが主演した作品で、韓国人の友との友情や祖語を描いた作品で、日韓の亀裂を見るにつけ、今も鮮烈な印象が残っている。

★1990年のラジオドラマはそんなところである。今回はここまで。

★本日これまで。おやすみベィビー!また明日。

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私と演劇60 1989年平成元年

2015-05月六本木ヒルズ


★写真は六本木ヒルズです。

★私と演劇60 1989年平成元年

★さて、この年10月17日~20日にアドベンチャーロードの枠で、花井愛子原作高谷信之脚色の「夢の旅」という作品が放送されました。

★多分書いたのはこの年の夏7月~8月頃だったのではないかと思われます。大体この頃のラジオドラマの場合は特例を除いて、OAの2か月前くらいには出来ているというようなペースでした。

★青木愛・武井みどり・西川 弘志・花房徹等の出演で、物語は高校に上がったばかりの女学生と昭和の一桁生まれの青年がタイムスリップで出会い、繰り広げていく青春模様を描いた作品です。

★演出はこの時初めてで、以後長いお付き合いとなる江澤 俊彦さんでありました。

★今回改めて、この当時のテープを聞いてみたのですが、非常にビュアーな作品で、吾ながら当時こんなものがよく書けたものと感心しました。

★演出の江澤さんもこれは初めてのラジオドラマですが、俳優の個性・音楽全体のテンポ・リズムなど実に鮮やかなデビューを飾っている作品であります。

★この年はアルバイト探偵に始まって夢の旅のアドベンチャーで終わったようです。芝居は解散したつもりは全くないのですが、八騎人(ハッキジン)が自然解散のようになっていて、多分1本もやっていなかったように思えます。

★今回はこれまでです。

★さて、本日は夕方六本木のテレビ朝日アスクへ出かけ、今期初めての小生も初めてお会いする、放送作家の清水東さんをお迎えして、簡単に講座の成り立ちや、方針等説明させていただき、講座の開始を見届けて、再び東村山へ帰ってきました。

★昨日も今日も、とても清々しい季節で、昨日は近くの1周1キロある公園を一周歩きました。

★年寄りの男が何人も深刻な顔で楽しむのでもなく、速足で手をぐるぐる回したり、駆け足で公演を廻っているのを見ると、何とも長生きの為のさもしい運動のように見えて、(同じ年頃なのに忘れて)何でこいつらは、ゆっくりと歩いて、花をめでたり、鳥の声を聴いたりして季節を楽しまないのか?と不思議になりました。

★それは人それぞれ生き方だと言ってしまえばそれまでですが、1日でも長生きをするために健康の為に走るなどという事はまっぴらごめんです。

★人生は長生きするためにあるのではなく、楽しむためにあると思うので・・・・

★本日これまで。おやすみベイビー!また明日。

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genre : 日記

私と演劇59 昭和最後のラジオドラマ

「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」2-5

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台です。 撮影 向 操

★私と演劇 「59 昭和最後のラジオドラマ」

★1989年昭和64年1月7日に天皇が逝去された。

★昭和は64年は7日しかなかった。その昭和64年1月4日、5日、6日と小生の書いたラジオドラマ アドベンチャーロード「アルバイト探偵」がNHKFMで放送された。

★時間は22時~22時15分に放送された。4日「アルバイト探偵は高くつくの巻」5日「相続税は命で払えの巻」6日「海から来たスパイの巻」のそれぞれ独立した話の放送であった。

★6日夜10時15分に終った『アルバイト探偵』「海から来たスパイの巻」が、昭和時代の最後のラジオドラマになった。

★昭和天皇は翌1月7日6時33分に崩御された。

★1月7日は昭和ではあるがドラマや歌舞音曲は自粛され、一日中ニュースと回顧ドキメンタリー、クラシック音楽がラジオもテレビも流れることとなる。

★そして元号が平成と改められ、1月8日から平成となる。

★したがって、昭和最後に放送されたラジオドラマを書いたのは高谷という事になった。ただ、これは偶然でカルト的事実でしかない。

★なお、アルバイト探偵の他の5作品は1989年7月10~14日・女王陛下のアルバイト探偵として7月17~21日に改めて放送された。これ等のシリーズは松田 洋治が主役で谷隼人・高林由紀子が共演し、主に演劇集団円の若手の女優さんがそれぞれゲスト出演した。

★この作品は勿論荒唐無稽な所もあり、喫茶店に原作にはない、放し飼いの九官鳥を作りその鳥に語らせたりした。

★驚いたのは、この15分に凝縮してテンポよく終わらせた同じ原作の一話を、後日民放の2時間ドラマのテレビで観た。

★CMを入れて1時間49分程だとしても、15分で終わる話を色々盛り込んで110分にするのだから、間延びして何ともぬるいドラマに成っていた。

★こういう事をしているから、TVドラマは駄目なのだとしみじみ思った。2時間の間にラジオのように5本ぶち込むような鮮やかな方法をテレビは悲しいかな持たない。

★さて、この年後半で小生にとっては新しい出会いがあるのだが、そのことはまた次回。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 伝えたいこと
genre : 日記

チラシ用写真の撮影

7月公演チラシ用写真

★写真はチラシ用写真を撮影しているところです。

★さて、本日は7月25日(土)と26日(日)に上野小劇場でで上演する芝居の、宣伝用チラシの写真の撮影をしました。

★吾がギルド専属カメラマンの向さんに来ていただいて、東村山の稽古に借りる場所で、色々と衣裳ポーズを変えて、約400カットを上回る撮影をしました。

★スタッフも他に3人。出演者も共に頑張って写真を撮りました。

★いよいよ始動したわけで、こちらは3人に合わせた新作を書き始めなければなりません。

★とにかく雑用を少なくして、集中し、体力をうまく分散して頑張ろうと思っています。

★2人の女の芝居は書いたけれど、若い女の子3人の芝居は書いたことがありません。有名な芝居で「バニティーズ」というチアリーダーたちの芝居がありますが、あれに負けないような新作を書き上げようと思います。

★今回新しく決まった佐藤さんも、劇団員の北村も本来ダンサーの脇坂さんもそれぞれに個性が違い、その違いの魅力が溢れている3人です。まずそれをうまく引き出せる本にしたいと思います。

★終わって、時間の有る数名が自宅兼事務所に集まってちょっと一杯でした。みんなのやる気が感じられ、ちょっとした心地よい、プレッシャーを感じる一時でもありました。

★さあ、スパッと20代の女3人の心の中に切り込んで、抉り取るぞ!の心境であります。

★本日これまで。お休みベイビー!jまた明日。

theme : 今日の出来事
genre : 日記

新しい出会い

「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」2-4

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台です。 撮影 向 操

★さて、本日は若い女優Uさんから紹介してもらったSさんに夜新宿で会いました。

★最初3人で話し、紹介してくれたUさんはバイトなので、抜けて後、色々と話を聞きました。

★ちょっと小生のかつて書いたセリフを読んでもらったりして、軽くオーディションとは言えないけれど、こちらの劇団の話もして、その方の事情や経歴を聞きました。

★まだ22歳と若く養成所を3月に出て、1本芝居に出ただけという経歴ですか゛、芝居への新鮮な情熱とビュアーな持ち味を感じて、7月の芝居に出ていただく事としました。

★これで出演者の3人が決まったわけで、この3人を頭に置いて、あたらしく書き始めなければなりません。

★所詮は躯が持つか、集中力とそれを支える体力がどれだけ持続するのかという問題が第一義で、もうこの年になっては才能があるかないかなどという事は二の次三の次です。

★それは偉そうにいうのではなく、どれだけ散漫になり、保守的になってしまった脳から絞り出して深く軽やかなイメージを掘り起こし、書いていくかという事なのです。

★この年になって、それが出来ないならそれまでという事です。

★ただ、一つだけ自分に誓っているのは、過去の引き出しで勝負をしないという事です。

★全く新たな文体、全く新たなシュチエーション、かつてないセリフの運びと、いまだかつてないセリフ又は沈黙による人物を描こうと常に思っています。

★そのための戦いは堅くなってしまった脳には大変な事ですが、それをやり遂げなければいい年をして芝居なぞをやっている意味がありません。

★必死の覚悟で心して挑みたいと思います。まだ題名もしかと決まっていない芝居ですが、稽古開始までには何としても書ききる覚悟であります。

★とはいいつつある程度構想はあるのですが、果してこれがどうなるやら。いつものことながら、孤独で長い戦いが始まります。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。

theme : 思ったこと・感じたこと
genre : 日記

私と演劇58 1988年

「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」2-3

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台です。 撮影 向 操

★私と演劇58 1988年

★多分この頃は「中学生日記」を書きだしていて、NHK名古屋へ新幹線で行き、1泊で打ち合わせをして来て、帰って2週間ほどで脚本を書き上げ、原稿を持って又名古屋のNHKへ行き、脚本を提出して平均2泊3日ぐらいで直しをして帰ってきていたのだが、今手元にTVの脚本の資料がないので、後で纏めて「中学生日記」については書きたい。

★この年6月20日~7月5日迄の月~金全10回のNHKFMアドベンチャーロード・北方 謙三作高谷脚色の「檻」がOAされた。多分書いたのは4月~5月の事と思われる。原田 芳雄さんとの2度目の仕事であった。金沢 碧さんとも2回目だったかもしれない。旧知の演劇集団円の三谷 昇さんが素晴らしい存在感を示していた。

★ハードボイルドは嫌いではないし、随分ダシ―ル・ハメットやレイモンド・チャンドラーそして日本のハードボイルドも個人的に読んでいたが、脚色のしかもラジオドラマとなると、実際には脚色は大変な仕事だった。

★ただ、15分1話完結で5回で1週というサイクルの中で脚本を書く事は大変修行にもなり、ドラマツルギーの腕を上げる為には絶好の仕事であった。1話毎に山場を作り、5話でまた、視聴者に来週も聞いてみようという気にさせて終るという事は大変な仕事でもある。

★余談になるが、この月~金の続きがほとんど全てだったので、最近朝ドラの「まれ」を観ていて、どうもおかしいと思っていた。それもそのはず、TVの「まれ」月~金ではなく月~土だった。そのため割合最近まで、土曜日を観ていないので、なんか奇妙に話がつながらなかったからである。人の思い込みはげに恐ろしい。

★その後9月5日~16日間での土日を除く10回パトリック・ルエル作・高谷脚色で「長く孤独な狙撃」が放送された。

★多分こちらは6月~7月に書いていたかと思う。

★これはサスペンスとハードボイルド風ではあるが、イギリスの作家独特の人間模様が良く書かれた作品で、今は亡き松本順ディレクターとやれた唯一の仕事であった。

★ラスト近くの長めのモノローグを「ここはカットする」「いやカットしないで下さい」と言い争ったのが、今では本当に懐かしく思える。松本さんは優しく才能の溢れたディレクターだった。

★主演は藤岡 弘・共演高沢 順子とあまりラジオには出ない俳優さんが実に新鮮だった。

★そしてこの年は昭和天皇が9月末御病気になられる。そしてあくる年早々昭和は終るのだけれど、その話は次回に。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 伝えたいこと
genre : 日記

私と演劇57 1987年その2

「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」2-2

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台です。撮影 向 操

★わたしと演劇57 1987年その2

★さて、1月10日に正月特集ドラマとして「七草なずな」が放送された。

★そして、この年6月8日~19日迄土日を除いて全10回アドベンチャーロード・リチャードジェサップ原作の「摩天楼の身代金」のラジオドラマを脚した。これは多分3月~4月ごろ執筆したのではないかと思われる。
出演は森本レオさんが印象に残り、范文雀さんとは2度目の仕事であった。

★そして割合すぐ夏休みヤングシアターという枠で、さねとうあきら原作の「東京石器人戦争」を書いた。
この時は誰かが急に書けなくなり、代打で頼まれたのだと思う。話があってからの執筆期間はほゞ1週間だったと思う。

★しかし、なかなか優れた原作で、児童文学としては大変深い文明批判のテーマがあり、しかもわかり易く、スケールの大きなラジオドラマだった。まだあまり名前の売れていない内藤 剛さんが熱演していた。
これは児童劇にすればいいと、ある児童劇団に話したが、実らなかった。実にすばらしいドラマなのにもったいない。

★団地の脇の取り残されたような森に石器人が住んでいて、やがてその森を現代人が戦争を仕掛けて、めちゃめちやにしてしまい、団地の男の子と石器人の女の子が手を取って、全滅してしまった都市を新宿の高層ビルがまるで大きな墓標に見える処にアダムとイブのように二人だけで立ちすくむという恐ろしくも警鐘に満ちた作品である。

★1週間で書き上げたはいいが、当時はペンで原稿用紙に書いていた。万年筆と鉛筆の時代があったので、どちらかはわからないが、とにかく筆圧の強い人間なので、終わった途端右腕の関節が膨れ上がり、腱鞘炎になってしまった。

★その時は治療したが、担当の方には言わなかった。弱みは見せたくないと思っていたのかもしれない。

★そして同じ年12月14日~25日までのこちらも土日を除く10回各15分のアドベンチャーロード今西祐行原作「肥後の石工」を脚色し、放送された。

★肥後の石工には珍しい話がある。2年ほど前のブログに書いたかもしれないが、桃井 章さんがオーナーをしていた乃木坂のコレドに芝居を観に行って、そこに出演しているかなりお年の俳優さんと芝居が終わった後、話していて、こちらがラジオドラマを書いているというと、「そうですが、ラジオドラマは一度だけ主役で出たことがある」と彼は言った。

★「そうですか、なんというラジオドラマですか」と尋ねると、「肥後の石工」というドラマだったという。「それは私が書いたドラマですよ」という話で互いにびっくりした。彼の名は谷村好一さんといい、昔と違って喉の病気で手術をして大分声が出にくいようになっていたが、その芝居も実に存在感のある演技をしていた。

★ラジオドラマは1日か2日稽古をやり本番をやるのだけれど、何度も小生の書いたドラマに出て頂いた橋爪 功さんや
内野聖陽さんや小林 勝さん清水紘冶さん。お亡くなりになった林 隆三さん同じく鬼籍の范文雀さん等はこちらの事を覚えていてくださるが、普通2日位の顔合わせでは役者の方は作者の私の顔など覚えていない。

★わたしのほうも、いけない事だが、自分の書いた作品に出てくれたにも関わらず、その方が知名度のあまりない役者さんだったりしたらおぼえていないし、まして、若い頃すごく脇の役で出ていた方の記憶はない。

★そのためにこういう偶然の再会がある。谷村さんはラジオのテープを持っていないとおっしゃったので、CDに焼いて送って差し上げた。

★この年は多分芝居は八騎人自体が解散状態で多分公演はやっていないと思う。そんな1年であった。

★本日これまで。おやすみベィビー!また明日。

theme : 伝えたいこと
genre : 日記

私と演劇56 再び1986年に戻って

「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」2-1

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台です。撮影 向 操

★私と演劇 56 再び1986年に戻って

★さて、ここで朝日新聞社の「戦後50年」というムックが手に入ったので、そこにある年表と対比して私と演劇を語って行きたい。

★そこで1986年に思いだ゛したことがあるので戻って追加したい。

★この年昭和61年3月下北沢の駅前劇場で3月25日~30日八騎人の公演小生の作演出で「ショートレイン」を上演した。
★この芝居は前年の吉祥寺バウスシアターで上演した、「スタイリッシュ・ラブ」という芝居の再演を企てた女性2人組が下りてしまったことにより、あらかじめ抑えていた、下北沢の駅前劇場で、しかたなく八騎人の公演として打ったといういきさつがあった。

★そういった色々ないきさつもあり、作・演出・プロデュースの小生はくたくたで公演をやり終えた。

★そして終わってすぐ4月1日からだったと思う。保育園の保母を退職した母がクリスチャンだったので、聖地巡礼の旅に行きたいといい、付き添いでついて来てほしいと言われていた。

★そこで、エジプトから入ってシナイ半島を北上しイスラエルに入り、ギリシャを経由して帰ってくるという約2週間の旅であった。母を含めて33名がクリスチャンで、私だけが洗礼を受けていない旅だった。

★シナイ山の麓で激しい下痢をして、一人山に登らず寝たままで過ごしたり、イスラエルに入ってキリストが涙を流したという苦悶教会の中で、何故か躯が震えてきて、傍らに居た母に「洗礼を受けたい」と涙ながらに言っていた。

★4月8日(何故かお釈迦様の誕生日に)キリストがヨハネから洗礼を受けたというヨルダン河で同行していた牧師さんの計らいで、小生洗礼を受けさせていただいたのである。

★しかしこのことは後に尾を引く。いろいろあって、約1年でわたしはキリスト教の教会から離れたことになる。

★このイスラエルの洗礼を中心にした物語が後に「砂漠巡行」、1992年の6月発表の作品と、とキリスト教を捨てたという事が1994年の「天主堂」8月発表のラジオドラマの元になって行った。

★そして時系列的に進めると私と演劇、前々回54回から55回にその年の夏盲腸で入院手術して、帰ってきて演出をして、志水 辰夫の「背いて故郷」を書いた。放送日は10月13日(月)~17日(金)20日(月)~24日(金)の計10回

★そして、秋、「七草なずな」を書き上げ、例の新橋 耐子さんとのバトルになるのである。

★こうして見ると、1986年小生43歳の年は、実に様々な事をやり、動いていたことになる。

★芝居とラジオドラマそして海外旅行と病気もして、忙しくこんなに多彩な1年もあまりないかもしれない。

★ここまでが私と演劇 「1986に戻って」でした。

★今日は午後、劇団員の長谷川が自宅兼事務所に来て、ラジオ台本の整理とラジオドラマ年表の作成を手伝ってくれました。

★お蔭て、ラジオドラマに関しては大分いつ何を書いたかがわかり易くなりました。

★本日これまで。お休みベィビーまた明日。

theme : 伝えたいこと
genre : 日記

今日は大変な日で・・・・

桑の実を採る

★写真は空堀川の河原で桑の実を採っている家人です。

★さて、本日は午後、病院へ行き、検査。2週間前に患ったところはすっかり良くなってはいました。

★ただしまた別の血液の検査、2週間後に結果が出るとの由、またまた結果が出るまでなんとなく憂鬱な2週間ではあります。

★今日は又家人の誕生日で、夕方東村山の回転ずしに行き、久々の外食。

★帰りにBOOKOFFで資料とビデオを買い求めての帰り道、空堀川の川べりに自転車を止めて、桑の実を採ると言って
家人が川原をどんどん歩いて行ってしまいます。

★いつもは、先に帰ってくるのですが、時刻も夕闇直前。誕生日なのでしかたなく、自転車を止めて待っていると、20分くらいたっても戻ってきません。探しに行くと200メートル程下流でまだ桑の実を採っておりました。

★まあ、こういった奔放というか、思いつき人生(人の事は言えないのですが)につきあうこと49年。20歳だった家人というよりは外人(そとじん)と過ごしてきて、とうとう彼女も69歳になってしまいました。

★近頃は疲れた疲れたと言いながら、ぐっすり眠ると翌日は疲れがとれるみたいで、すぐ目が覚めたり、バネ指や右肩痛や夜中3回も4回も起きてしまい、寝たのか寝なかったのかわからない状態の小生とは打って変わって健康であります。

★まあ、人間何が大切と言って、この年になると健康以外に勝るものはないので、「亡くなった親に感謝しなさい」と偉そうに言ってしまいました。

★ですが、その健康に支えられて、小生とは違い決して落ち込まず、明るい家人を持って本当に幸せだと痛感した次第です。

★このようにゴマをすっておかないとアビというかすがいを亡くしたので、危ないからであります。

★すみません。お見苦しかったと思います。

★夜親しい友人がプレゼントとケーキ持参で尋ねて来てくれて、家人も感激しておりました。

★今回はアビが亡くなってから初めての誕生日なので、ひときわさびしい誕生日となりそうだったのにありがたいことです。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 今日の日記
genre : 日記

プレイショップその2エチュード他

五月30℃の昼

★写真は5月なのに本日30℃の気温の光景?です。

★さて、本日は六本木の日脚連で「脚本家ニュース」の校正の仕事を14時からやりました。15時半に無事終わり、18時30分までのぽっかりとした空き時間。映画を調べたら時間がうまく合わず、新宿へ。

5月30℃の新宿

★新宿も五月にしては30℃の暑さ。

★お茶を飲んで、カメラ量販店をウロウロして、ラーメン食べて、それでも時間が余って、黒シャツの半そでの安いのを買って、やっと稽古場の上石神井へ。

★6時30分より、十分に呼吸・発声・柔軟体操をやって、読みの稽古。

はい、柔軟体操

★それからエチュードで集中を少し。

読み稽古


★以前に客演してくれたT君がHさんと一緒に見学に、こちらも以前客演してくれた、喪さんが参加してくれました。

★終わってから、暫し歓談の一時。

★普通のスケジュールなのに、結構ハードな1日のような気になるのも、やはり年の所為なのでしょうか?

★昔ほど行動的でないというか、空き時間が開くとつぶせず、苦痛なのであります。

★なんとなく写真でごまかしたようなブログですみません。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。

theme : 日々のつれづれ
genre : 日記

私と演劇55 1987年その1

五月台風の前の空

★写真は昨日5月12日、台風前の夕方の空です。

★わたしと演劇55 「1987年その1 ラジオドラマ」

★放送年月日は1987年1月10日(土)の夜、NHKで特集オーディオドラマ「七草なずな」という作品が放送された。
これは内田栄一さんの随筆集から小生がドラマに書き上げた60分の作品だった。

★この脚本は多分1986年の秋に書いて11月頃収録したと思う。

★そしてこの作品にはそうそうたる役者の方が出演した。
北村 和夫・加藤武・新橋耐子・殿山泰司・村田正雄・大塚国夫・森塚敏等文学座・青年座を代表するような俳優、そしてあの映画スターともいえる殿山泰司さん、3代目村田正雄は新派を代表する俳優さんでした。

★忘れもしない、リハーサルの時わたしは新橋耐子さんと喧嘩をした。それは空襲で焼夷弾を浴びながら子供を背負って叫びながら新橋さんが走るシーンだった。新橋さんが「こういう書き方の台詞だとうまくしゃべれない」と言うような言い方をした。

★そこは回想シーンだったので、私はセリフを日常の喋り方とちょっと工夫して、わざと加工していたのだ。

★それが新橋さんとしては気に入らなかったのかもしれない。

★私はその旨を説明した。新橋さんは引かなかった。あんに「直さなければしゃべれない」というような勢いだった。私も若かったし、作者としては意図もあったので改訂は認められなかった。

★そうそうたる役者さんの居るリハーサルの只中で言い争いに近くなったとき、文学座の先輩である北村和夫さんがとりなし、演出の伊藤さんがまとめて、その場はセリフを大きく直すことなく行くこととなった。

★翌日の本番のせりふ収録の時だった。新橋耐子さんの演技は神がかっていた。この本はそれぞれ力と味の有る役者さんによって、何とも深みのある作品になったのだけれど、中でも燃え盛る火の中を、子供を背負って逃げる新橋耐子さんの演技は、遥かに私の書いたセリフの領域を超えて素晴らしかった。

★後年ある酒席でこの時の話をご本人にしたが、新橋さんはまるっきり覚えていなかった。新橋耐子さんは今まで私があった女優の中では一二を争う。

★文学座で思い出すのは亡くなった太地喜和子さんである。私が29歳の頃1972年頃だったと思う。ジョン・オズボーンの「怒りを込めて振り返れ」の五月舎公演の時に彼女は山口崇さんと共演して、主演をしていた。私は小道具係りで、暗転中に部屋の箪笥の中身を替えたりという仕事をしていた。

★袖から出る前の太地さんをよく見ていたが、山口さんの腕にすがってブルブルと震えていた。ところがいったん舞台に出て光を浴びると、素晴らしい演技をした。

★そしてまた、ほかの方は初日が開けると、稽古で作り上げた芝居を一定にキープして演じていたが(これが大体プロの役者の有様である)太地さんだけは、ドンドン芝居が良くなっていくのがわかった。初日よりは2日目2日目よりは3日目と芝居は裏方から見て、ドンドンよくなっていくのだ。それも決してアンサンブルを崩さないように・・・・


★文学座は杉村春子さんを棟梁として成りたっていた劇団で、杉村さんを慕って多くの女優さんが入団したが、この二人を観ても杉村さんが如何にすごかったかが推測できる。

★ちなみに二宮さよ子さんは私のラジオデビュー作「風に舞う木の葉のように」で素敵な色っぽさを出していただいたし、吉野佳子さんは「妻の父」で、小生の家人に当たる役を演じていただき、ご本人の諸々の私的事情とも重なり、身につまされたと言って、素晴らしい演技をしてくださった。

★初めてのシナハンに行った作品、神保共子さんの「古里まとめて花一匁」の悲しく深い演技も忘れられない。

★話はそれてしまったが、文学座の女優さんには大変お世話になった。みなさんが、小生のつたないセリフを輝かせてくださったのであります。

★ともかく力ある役者さんと演出のお蔭で、「七草なずな」は重厚で、ちょっぴり粋な江戸前の作品になり、正月を飾る事が出来たのである。私の中では一番大人っぽい作品になったのではないだろうか。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。

theme : 伝えたいこと
genre : 日記

世間で言うワークショップ即ちプレイショップ開催

7月ワークショップ

★写真はプレーショツプの図

★さて、本日は上石神井の稽古場でワークショップならぬプレイショップをやりました。

★まず躰の柔軟とステップの練習を脇坂先生に1時間ほど教えていただきました。初めは鉄骨のように硬かった躰が1時間色々やっていただき、本当に柔らかくなりました。

★その柔らかさを芝居に生かしてくれよ、と演出はいつも思うのです。

★新しく入ったスタッフのJ君も無理矢理動かされ、踊らされ、さぞびっくりしたと思います。

★その後、朗読の基礎の基礎。動詞の協調、接続詞や副詞をリズムの切り替えに使い、柔らかく言うこと。

★全体の中から、何に向かって何を言わんとするかの整理等、ごく基本の事をやりました。

★モノローグそして会話それから講談の喋り方などやりましたが、あっという間に時間が来てしまいました。

★終わって、五月にやってきた場違いな台風が直撃する中、ラーメン屋でラーメンとビール餃子を食べながら暫し歓談。

★早めに帰り、11時過ぎ家の近くの駅ではもう雨がやみかけていました。

★場違いな割には短気で早い台風でした。

★本日これまで。おやすみベィビー!また明日。

theme : 稽古、稽古、稽古
genre : 日記

バネ指と右肩痛

中央公園

★写真は中央公園の八重桜です。

★さて、ちょっとブログには書いていなかったけれど、右肩の痛みが半端なくて、夜も眠れないくらいで、苦しい。毎日鎮痛剤を飲んだり、睡眠導入剤を飲むのは避けたいので、出来るだけ我慢をしているのだけど、だんだんエスカレートしてくる。

★左手のバネ指も既にに1か月以上経つが一向に変化がない。

★そこで、いろいろ友達からアドバイスもいただいたのだけれど、ペインクリニックという物があり、これは主に麻酔医系のお医者さんがやっていて、うまく合うと効果があるらしいのだけれど、色々調べると、麻酔注射を打って更に注射というような傾向があり、高齢者としてはちょっと怖い感じがある。

★そこで、とりあえず近所の整形外科に行ってみることにする。待ち時間3時間ほどで、レントゲンで両手の指と右肩を撮って後診察を受ける。

★左肩が約2年程痛くてほとんど同じような症状だったので、其の経緯を説明すると、2年は治り方としては短い方だとおっしゃる。「これは3年程ただ直るのを待つしかない」と言われる。

★昨年の春頃から始まったので後2年くらい我慢しなければならないのかと憂鬱になる。

★そして左指のバネ指は先の注射で、暫く痛みが引いていただけで、こちらは完治というものがないのだと言われる。

★また痛み出したら、注射をしてしばらく様子をみるか、或いは手術をするしか直らないと言われる。

★一端治ったのにまた再発したかと思ったら、「注射が半年もよく利いていたよ」と言われてしまう。担当の中村先生もまたバネ指で、1本は手術後、あと5本程は注射で様子を見ているのだという。でもほとんど日常生活に支障はないとおっしゃる。

★しかしこちらは医者ではないので、洗濯物のハンガーを取り込んだリ、自転車のハンドルを握るのにと随分日常生活で支障をきたしている。

★夕方、診察が終わり、家人を呼び出して、ダイエーでトレーナの下を買って、家人の誕生日のプレゼントとする。そして小生の財布を求めにドンキホーテ―まで行く。

★お金がないのに財布を買うという事はすごい矛盾だと家人は言う。確かにその通りだが、カード入れと財布を別にしようと思い、古い財布を探したが出てこないので致し方ない。

★金がないのに財布を買うこの矛盾は確かにどこか逆転していて、おかしい。財布はなるべくケチな人からもらうと財布のお金が出て行かないというが、これもおかしい。第一ケチな奴が財布などプレゼントしてくれるわけがないからだ。

★さて、肩と指の注射(こっちはめちゃくちゃ痛かった)は果して利くのだろうか?

★年を取ると躯のあちこちが壊れてくる。いやなことだが、向き合わざるを得ない。

★カッコよく言えば「メメント・モリ」(死を意識せよ)なのだけれど、芝居を一緒にやる相手はまだモラトリアムな「カルぺ・ディエム」(今日をつかめ)の連中とやっていくのだから、皮肉でもありすこぶる面白い。

★今「安井かずみがいた時代」という文庫本を読んでいるが、60年代から70年代に六本木や麻布や青山で「何者かになり」、いい酒をのみ、いい友達と遊び、仕事をし、稼ぐだけ稼いでいた彼女達安井かずみとか加賀まりことかコシノジュンコとかが、まるで当時の文化と流行の全てを作っていたように書かれているのはどうも納得できない。

★歴史は常に勝者によってその年表や晴れ姿を刻むのが常であるけれど、その裏で失意のうちに「何者にもなれず」頑張っていた者たちの60年~70年を芝居にしたいと思うのだ。10月にはこれをやる決意である。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : ひとりごとのようなもの
genre : 日記

パンドラの匣No5

府中街道のつつじ

★写真は府中街道に咲くつつじです。今が見ごろであります。

★さて、本日は夜、銀座の「みゆき館」へパンドラの匣第5回公演、ふたくち つよし作・佐藤雅子演出の「霞晴れたら」を観に行きました。

★佐藤一也さんが率いるこの劇団も早くも大5回目の公演で、相変わらず素晴らしい舞台を創っていました。

★ある病院の女子病室を舞台に、それぞれの親子や夫婦の愛憎がうまく書かれていて、これを演ずる役者の一人一人が実にバランスよく、しかもそれぞれ別個の演技個性を持っていて、うまくアンサンブルが機能していました。

★こういう芝居を書けたらとか、上演できたらと時に思うのですが、やはりさりげない人生の断片をうまく一場の空間の中でまとめていくという事が中々できずに、小生はここまで来たように思えてしまうのです。

★そういう意味では願望はあっても対極にある芝居なので、こういう芝居を見せられると参ってしまいます。

★えてして、こういう芝居はあまりうまくない役者さんとか、未熟な役者さんが出ていると、そうした隙間が先に目についてしまい、芝居に集中できないものです。

★しかしこの芝居はそれぞれの役者の方が過不足なくそれぞれの持ち場を維持していて、テンポもアンサンブルもうまい演出によって統一されていて、集中して観れるのです。

★その所為か、一番かなめの処では、本当に感動して涙をこぼしてしまいました。

★こういう大人の芝居がきちんとした評価を受けられることを望むのと、若い演劇人はこういう芝居を観て自分たちと何が違うかを学び取ってほしいと思います。

★終わって、居酒屋で皆さんと飲み会。古い付き合いの照明の明日(みょうが)さんとも酌み交わし、西武新宿線で同道して帰ってきました。

★こちらの芝居は銀座みゆき館で5月16日土曜日までやっています。興味のある方は是非観に行ってください。

★お問い合わせは「パンドラの匣」090-4936-5612 wq9s19kh3km3x3cm1amyage@yahoo.co.jpです。

★本日これまで。おやすみベィビー!また明日。

theme : 日記というか、雑記というか…
genre : 日記

日本劇作家協会の総会

蛍舞台A-5

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台です。 撮影 向 操

★さて、本日は日本劇作家協会の年に一度の総会が高円寺で開かれました。

★ここへ出席の後懇親会へ出席。

★坂手洋二さん小松幹生さん岡安 伸治さん丸尾聡さん等と久しぶりに語りあい、楽しい一時を過ごしました。

★パソコンのウィンドゥズメールに不具合が生じ、すべてのメールが来ているのか、一部のメールが来ていないのかという事がよく分からず、困っています。プロバイダーに聞いても駄目だろうし、こういう場合の対処の仕方がよく分からず困っています。

★仕事上メールは生命線なので、本当に困ってしまいます。

★と言ったところで、本日短くこれまで。お休みベィビー!また明日。

theme : 今日の出来事。
genre : 日記

私と演劇54 1986年

蛍舞台A-4

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台です。 撮影 向 操

★私と演劇54 1986年

★この年の事は良く覚えている。というのは、初夏だったと思う。高円寺の明石スタジオで「眠れ愛しのリリー」という作品の再演を上演すべく稽古をしていた。

★ところが途中で小生は盲腸になり、その痛みを散らしていたのだが、上演の2週間前ついに限界が来て、手術をすることになったのである。

★私は入院し、手術をすることになった。そして演出を以前八騎人の仲間でもあったM君に頼んだ。

★M君が悪いのではなく、むしろ助かったのだが、1週間たって退院してみると、私が想像した稽古とは全く違う物に仕上がっていた。

★なるほど、芝居は演出が変われば内容も変わる。私は驚いたけれど、とにかく公演まであと、4,5日なので、とにかく、私のイメージする舞台に作り替えるというか、戻さねばならない。

★私は必死になって、激しくただ怒鳴り合っている芝居を、滑らかな部分と激しい部分との緩急を整えて作り直して、ギリギリ間に合わせた。

★この公演はスタイルとしては、一気に3日とか4日やるのではなく、週末に2回また次の週末に2回というように3か月ほど上演するというぜいたくな上演方法ではなかったかと思う。

★そて何とか公演は打ち上げた。と同時位にNHKFMのアドベンチャーロードの仕事が入ってきた。

★脚色した作品は志水 辰夫の「背いて故郷」だった。放送日は10月13日(月)~17日(金)20日(月)~24日(金)の計10回であった。

★多分夏退院してすぐに書き始めた。今でも覚えているのは、手術後でスタミナがなく、15分書いては10分横になり、また頑張って10分書いては5分横になるという状態で書いた。

★その為出来上がってから、演出のIさんからパワーがないと怒られた。やはり、作品には己の体力というものが気力以上に影響するのだという当たり前の事を、改めて、認識した。

★作品は、橋爪 功さんの丁寧な芝居や、独特な雰囲気の高畑 敦子さんの演技によって救われたように思う。私の中ではこの作品はとても印象深いものとなった。

★亡くなってしまったが、文学座の篠倉 信子さんのラジオドラマデビュー作でもあり、その初々しい演技も印象深い。

★また、当時八騎人のいさらい 香奈子さんも脇役で初めてラジオドラマ初出演をした。

★多分1986年は芝居1本とラジオ脚色1本、そして年甲斐もなく中年での盲腸手術の1年であったように思う。

★今回ここまで。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 備忘録的なもの
genre : 日記

日脚連~新宿

蛍舞台A-3

写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台です。 撮影 向 操

★さて、本日は午後日本脚本家連盟へ行き、月に一度の「脚本家ニュース」の編集です。

★本日は曜日が連休によりずれた為、お休みの方が多く、紙面4面部分の割り付けを小生がやる。

★思ったより早く終わり、新宿へ。

★次の時間まで、かなりあり、本屋で探していた本をみつけ2冊買って、、ビックカメラ等をぶらついて、暫しコーヒーを飲んで読書で時間を潰す。

★6時本日の打ち合わせの人と会う。このところ連日6時に新宿で会うという事に偶然なっている。

★食事をして、居酒屋で飲む。

★楽しく打ち合わせが出来た。

★本日短いがこれまで。お休みベィビー!また明日。

theme : 今日の出来事。
genre : 日記

私と演劇53 再び1985年

蛍舞台A-2

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台です。 撮影向 操

★私と演劇53 「再び1985年」

★1985年は手元にある資料としてはNHKFMのアドベンチャーロードで7月1日(月)~7月5日(金)・7月8日(月)~12日(金)の各10回で、北方 謙三作・高谷脚色で「危険な夏」を放送している。

★ということは4月~5月ごろまではこの作品の脚色をしていたのだと思う。

★これが小生の書いたラジオドラマに原田芳雄さんが出演した最初でもあった。共演内藤 剛・谷 隼人で、小生が書いたハードボイルドとしては第一作目だった。

★原田さんとはこの先何本かラジオの脚本で関わるのだが、当時から実に渋い声で渋い芝居が出来て、すばらしい役者さんであった。残念なことにまだまだという時に亡くなられた。。

★さて、脚色という仕事は原作をまるで顕微鏡で見るように観察して、何回も何回も読み返すことから始まる。多分よっぽどのマニアは置いておくとして、原作の本を一番何回も読むのは多分脚色者か、それをドラマにしようと先に考えたディレクターではないかと思う。

★例えば、その仕事に入る前は北方 謙三のファンだとする。それも大好きな作家だったとする。でもここで考えてほしい。どんなに好きな女でも顕微鏡でその肌の細胞を何回も見たら、欠点やあらが見えて来て、大方嫌いになる。
いやそんな荒れた真実の肌の細胞まで好きだという人は非常にまれか、すこし変態じみていると思う。

★わかりますか?そういった理由で、北方謙三も志水 辰夫も本当に好きな作家だったが、脚色し終わると、様々な弱点が見えて来て嫌いになってしまった。

★これは何も上目線で言っているのではなく、本当に繰り返し細部まで小説を読み尽くすと、誰にでもそういう事は起ってくるのだと思う。

★だからして、好きな作家の脚色や潤色(潤色の意味は脚色より更に色を付けて加工すると、私は考えている)は出来ればやりたくない。

★同様に嫌いな作家の小説の脚色もやりずらい。出来れば好きでも嫌いでもない作家の小説やエッセイを脚色したいとおもうのだが、仕事は先様から来る場合がほとんどなので、そんなにうまい具合にはいかないのである。

★この年芝居もしたと思われるが、現在芝居の年表が手元になくはっきりとしたデーターがわからない。ともかくこの年はこの作品のラジオドラマしか現在記録が残っていないので、またあらためて、分かったときにこの年1985年の事を書こうと思う。

★というわけで今回はこれまで。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 伝えたいこと
genre : 日記

私と演劇52 番外若頃見た舞台

蛍舞台A-1

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台です。 撮影 向 操

★私と演劇52 番外 若い頃見た芝居。

★さて、話はコロコロ飛んで行くが、高校生の頃見た芝居についても述べておきたい。

★最初のいわゆる新劇という物を見たのは静岡の公会堂で、新劇合同公演「関漢卿」(カンファンチン)であった。出演は山田五十鈴と滝沢 修だったと思う。1959年のことで、はっきり言って、中国風の衣裳を着た山田五十鈴と滝沢修がボンヤリと記憶にあるが、ほとんど印象は残っていない。

★その他静岡では俳優座のロマン・ローラン作「愛と死の戯れ」を観た。仲代 達也がまだ新人で大抜擢されての舞台だと思う。相手役は小沢 栄太郎で、長い仲代の足と、独特なちょっと滑舌の悪い長台詞の喋り方は良く覚えている。

★その仲代達也がもう82とかで、大ベテランになっているとかで、何とも年月の経ち方に驚かされる。

★静岡では演劇鑑賞団体に入っていたのだと思う。そして俳優座公演、阿部公房作の「幽霊はここにいる」も観た。
三島 雅夫が主演で、この時も田中 邦衛という新人が抜擢された。

★この人も口をもぐもぐと言わせながらしゃべるので、俳優座の新人は滑舌がずいぶん悪いやつが多いなーと生意気にも思った記憶がある。

★上京して、1961年か2年に東横ホールで、民芸の久保栄作「火山灰地」を観た。冒頭下手から上手へ舞台上を蒸気機関車の煙が汽笛の音とともに走り、舞台中央の切株に腰かけた宇野 重吉が語りだす。

★「先住民族の言語を翻訳すると川の流れたところを意味するこの町は、日本の北の果ての農業都市・・・・」とよく真似をしたセリフをとつとつと語りだす。

★この公演では、大滝 秀治と垂水 吾朗が新人ながら重要な役を与えられて舞台に立ったのだけれど、ぎこちなく、本当に下手な感じがした。後年垂水さんは小生の書いたラジオドラマ「妻の父」で父役をやられ、実に渋く素晴らしい演技をされたが、亡くなり、大滝 秀治さんも大俳優ことで先年亡くなった。

★こう考えると、年月の重さと速さをしみじみと思ってしまう。

★当時は本当に俳優座や民芸の芝居をすごい舞台だと尊敬のまなざしで見ていた。だが、それをまっこうから否定する鈴木忠志に1962年に会い、新劇団自由舞台で役者をやり始めて、小生の頭の中は混乱した。

★別役 実さんもまだ劇作家としてはほとんど無名で、「象」や「AとBと一人の女」を書き、やがて、「象」が本になる前の頃の話である。

★映画の世界はフランスを中心としたヌーベルバーグが席巻していて、ヨーロッパではアンチ・テアトルとしてシヨネスコやベケットが出ては来ていたが、日本のほとんどの劇団はリアリズム演劇の只中に居た。

★ほとんどの劇団と言っても文学座・俳優座・民芸に俳優座の衛星劇団新人会・三期会・そして葡萄の会・東京芸術座等とほとんど大所帯の数えれば両手の指で足りるほどの劇団しか日本のプロ劇団は存在していなかった。

★そんな状況下で小生は「青の劇場」という集団を作り、ラ・シーヌの「ブリュタニキス」を演出しながら出演もしたが、たった2回か3回の公演を打ってその後は解体してしまった。

★というわけで、今回はこれまで。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。

theme : 伝えたいこと
genre : 日記

私と演劇51もしくは映画8

中央公園の緑2

★写真は緑の木々です。

★私と演劇51 「私と映画8 ヌーベルバーグ」

★高校を出て、静岡から東京に出てくるのだが、1960年の暮れ、先日閉館した新宿ミラノ座で、同級生のO君と西部劇「アラモ」を見たのを覚えている。この間早稲田予備校の冬季講座をO君と短期間受けに来ていた間の息抜きだったと思う。

★開けて1961年早稲田の一文を受験し、見事に落ちて、二文に引っかかった。

★前年1960年から20数回も職を変えた父が、東京でたまたま職が決まって、小生もバイトをしながら、大学へ行けることになった。この一年だけはかなり父も豊かで、ほとんど小生もバイトをしなかったように思える。

★翌年父の会社が倒産し、小生が失業した父と上京してきた妹をバイトで食べさせる自体にはなるのだが・・・・

★そう、今日は映画の話だ。大学に入ると、もろにヌーベルバーグの影響を受けた。中でもJ.Rゴダールの「勝手にしゃがれ」に一番衝撃を受けた。後に惨殺されたジーンセバークの初々しさと、J.Pベルモンドの切なく哀切な胸を突く物語と、革命的なラウル・クタールのカメラには本当に参った。

★トリフォーの映画もそれなりに良かったし、アラン・レネの実に独りよがりな迷宮の様で難解な映像も好きだった。だが、小生にとっては、ゴタールの衝撃が一番でこれには何者も勝てなかった。

★映画というのは観た人間の年齢やその時の状況によって、違ってくる。例えばヌーベルバーグではないが、同時期の、ミケランジェロ・アントニオーニの映画はテンポがゆるくて、当時19歳か20歳のわたしにはついて行けないほど、たるかった。

★ところが、40歳を過ぎて、ある時TVで見た深夜映画で「情事」を見て、ゆっくりとパーンしていく冒頭のテンポが実に生理的に心地よくなっている自分を知った。そして、ビデオで「赤い砂漠」等を見直した。いい映画だった。

★もともと、イタリアンリアリズムのビットリオ・デシーカ等の作品を高校生の頃観て感動していたが、パゾリーニとかフェデリコ・フェリーニ等リアリズムを超えて新たな地平を切り開いたイタリア映画にもかなり影響を受けた。

★リアリズムと言えば先に小生がラジオドラマに脚色したポーランドの鬼才アンジェイ・ワイダの「灰とダイアモンド」や「地下水道」も好きな映画であった。

★こうして、小生はヌーベルバーグの波をもろに浴びて、育った。もう一つ映画とは関係ないが、私が通ったのは当時の生演奏をやっているジャズ喫茶だった。新宿歌舞伎町の「ラ・セーヌ」や池袋の「ドラム」名まえは忘れたが、現在の渋谷センター街の中ほどにあった油圧式で丸いステージがせり上がりながら2階へ行く店へよく通った。

★学生劇団に入ったにも関わらず、ジャズ喫茶へばかり入りびたりになっている小生に先輩はあきれて言った。「お前、芝居やりに来たんなら、芝居を観ろよ。ジャズ喫茶ばかり入り浸って、おかしいだろう」と。

★当時はいかりや長介がリーダーになる前の「桜井輝男とドリフターズ」や、ジェリー・藤尾・渡辺友子・森山加代子・平尾正章・坂本 九等が生で歌っていて、入れ替え無しだったので、コーヒー一杯で2ステージも飽きないで見ていた。

★水原 弘などもドラムでワンマンショーをやっていたりした。当時は今のライブ会場もなく、さりとて武道館などないから、ジャズ喫茶とかもうすこし器の大きい処と言えば、渋谷公会堂のような公会堂みたいなところしか歌手が生で歌う処はなかったのである。

★話がそれすぎたので、この項はこれまで。

★本日これまで。おやーすみベイビー!また明日。


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私と演劇50もしくは映画7

中央公園の緑1

★写真は中央公園の緑です。

★私と演劇50 「私と映画7 観客として」

★さて、高校生になり受験期が迫り3年になっても、私の映画鑑賞は終らなかった。この頃印象に残っているのは何故か松竹と大映の映画だった。

★その前に勿論東映の時代劇から日活の裕次郎や旭の映画は誰もが熱狂するように当然のように通過した。

★でも多分それは中学生の頃だったように思う。特に日活の映画はとにかく映画館の中の扉が閉まらないほど、人々がおしかけ、背の低い中学生の小生などは1回立ったままで、じっと大人の後頭部を1時間ほど見てやりすごし、次の入れ替えで、左右の通路になんとか入って、躰の側面を椅子のひじに押し付けられるようにして、躰をねじりながらやっと見るという程のすさまじい混雑だった。

★高校になってからは、大映の増村 保造や市川 昆の映画をよく見た。京 マチ子、叶 順子、若尾文子とか川崎敬三、船越栄二,市川雷蔵などが活躍していた大映のいわば黄金期である。

★松竹は木下恵介の惜春鳥とか、わりに青春群像を描いた映画が多く、その後に大島渚の「愛と希望の街」や篠田正浩寝吉田喜重等のいわゆる日本のヌーベルバーグと言われる作品も観た。

★東宝の映画は特にマキノ雅弘監督の「次郎長物」や早撮りで有名な渡辺邦男監督作品。川島 雄三の映画「縞の背広の親分衆」とか成瀬巳喜夫の「浮雲」や豊田四郎の「夫婦ぜんざい」等文芸作品など片っ端から見ていた。勿論黒沢 明の「7人の侍」には度肝を抜かれたし、「用心棒」や「隠し砦の3悪人」等も観た。

★そして高校になって変わったのはフランス映画やアメリカの西部劇を見るようになったことである。「サスカチワンの狼煙」「駅馬車」「真昼の決闘」そして文芸作品では「愛情の花咲く樹」のモンゴメリー・クリフトの二枚目振りに驚いたりした。
西部劇ではリチャード・ウィドマークのような渋い俳優が好きだった。

★エリアカザンの「エデンの東」でジェームス・ディーンを初めて見た。でもジェームスディーンが好きになったのは私は「ジャイアンツ」の方だった。エリザベステイラーを、油田を掘っている掘立小屋に招くシーンや、石油を掘り当てて、狂ったように狂喜するシーン、エリザベステーラーの娘に思いを重ねるシーン等が心に沁みた。

★その孤独な姿を見たいためにあの長い、作品としては2流の「ジャイアンツ」をビデオやDVDで何度見たことだろう。
多分何度も見直した回数では私の中で一番になるかもしれない。

★女優ではエブァ・マリー・セイント(「北北西に進路を取れ」にもヒロインで出ていた)とか正反対のグラマーなフランス女優サンドラ・ミーロ等が私のお気に入りだった。

★中でもちょっと毛色が違って印象に残っているのは、イブ・モンタンの「シャンソンド・パリ」だった。これは本当に歌と踊りのエンタテナーとしてのシヨーを映画を通して初めて見た作品で、以後自分の中で歌と踊りによるショーという物への嗜好が目覚めさせられた作品であった。

★フランス映画のジャクりーヌ・ササールの「河は呼んでいる」とかパスカル・プチ・ミレーヌ・ドモンジョ等青春物とかコメディーが盛んな時代であった。その後にトリフォー・ゴタール・ミケランジェロ・アントニオーニ等のヌーベルバークの時代がやってきたのである。多分この波がやってきたのは高3から大学1年くらいの頃だったと思う。

★ハリウッド映画ではビリー・ワイルダーの喜劇や当時はやりだしたシネマスコープによる「十戒」や「ベンハー」更にはヒッチコックの「サイコ」には震え上がり、隣に座っている知らない大人の女の人が、例の振り向きの瞬間に小生の手をキャーと言って思い切り握ってきたことが忘れられない。

★とりとめもなく、作品の羅列になってしまったが、その頃の人並みにビビットな感情に影響を与えたのは様々なジャンルの映画であった。今の若い者がゲームの中に居次元の世界を作りそこに入っていくように、私はほとんど貧困が織り成す喧嘩に明け暮れる家庭の現実の辛さから逃れて、映画を観ていた。

★当時中学生2人の家庭教師をしながら高校に通っていたが、今考えると、それにしても赤貧の状態でよく映画の入場料をあれだけ払えたという事が不思議でならない。続きは次回にする。

★さて、本日はやはり、何かと気に掛けるアビのいない生活が始まったばかりで、調子が狂う。

★例えばベランダの戸をアビが出ないようにすぐ閉めたりとか、転々と部屋を移動するアビを探したりとか、バターが好きなので、(バターの塩分が猫にはよくないので)こちらがパンにバターを付けて食べる時は、そっとアビに気づかれないようにしたりとか、様々な事がなくなり、ちょっとしたことに戸惑うばかりの日々が続いている。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

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様々な喪失感

4月21日の八重桜

★写真は4月21日の八重桜です。

★さて、本日は午後、劇団員の長谷川が事務所兼我が家に来てくれ、脚本の整理、主に小生の脚本のアーカイブズを手伝ってくれました。

★彼はアビが亡くなったことは知らず、驚いていました。

★彼と協力して、ロッカーの中に重ねてあった台本や、ベッドの下に押し込んであった脚本の入ったプラスチックの箱等を出して、夜までかかって、パソコンに題名・公開の年度とかその他の打ち込みを途中までやりました。

★10月の「'60~18」の芝居の元の資料としてまず、様々な脚本の整理、アーカイブスから始めようという事です。

★アビについては、遠く九州の友人から心に沁みるお悔やみのメールをいただいたり、またアビの為に泣いたというメールも他の方からもいただきました。

★アビも幸せな事です。

★夕方、仕事から帰ってきた家人と厚紙の箱にアビを入れてやり、周りを花で囲って、長谷川と小生と家人ですっかり冷たくなったアビをなでてやり、箱を閉じました。

★そして、車の都合がつかなかったので、丁寧に包んで、家人が南流山まで電車でアビを連れて行きました。

★そこで、古くからの友達Sさんにアビの厚紙の棺を渡してきました。

★2月頃に亡くなったSさんの家の猫ミミコの傍に埋めてくれるので、Sさんに渡してお願いした次第です。

★昨日ほとんど寝ていなかったので、夜10時過ぎに家人はくたくたになって帰ってきました。

★アビの為にくたくたにされるのもこれが最後でしょう。悲しいことです。

★長谷川が帰り、家人が寝ると、テレビのニュースを見ながら、何とも名状し難い喪失感がやってきました。

★2年前に妹を亡くし、去年の正月に親友のAを亡くし、それぞれに何とも言えぬ喪失感と虚脱感悲しみが切もなく波状的に襲いました。

★それとはまた違った涙と喪失感が波のように押し寄せては消えます。消えますというよりは、故意に他のことに熱中して忘れようとするのですが、波が押し寄せてくるのです。

★家人は「帰ってきて駅におりたら、これであなたと2人だけになってしまったんだなーとしみじみ思った」とか「私はアビを見送ったから、こんどはあんたを見送るんだから」等と言います。

★「見送ってくれるのは嬉しいが、見送るのだけは俺は耐えられないだろう」と言います。

★悲しみが浅いのではなく、やはりこういう時は女の人の方が割り切りというか、切り替えが早く出来るようです。

★何をするにも何かにつけ、気にしていた者、可愛い何かがもう家の何処にもいないという事が、何ともやりきれなく、だらしなく涙ぐんだりしてしまいます。

★自分が去って消えてなくなるのでなければ、人は何としても別れを乗り越えて先へ進まねばなりません。そうした当たり前の事の前で立たず゛んでいるような気がします。

★アビちゃん。中々さよならが言えない・・・・

★真夏のような27度の日が2日も続いています。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。


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アビ、永遠に

若き日のアビ

★写真は若き日のアビです。

★2015年5月2日午前3時10分、アビは永遠に旅立ちました。

★最後まで、寝ているところから這って出て、決められたおしっこ場まで行こうとして、よろけて横倒しになって・・・・

★寝ていた家人が起きて看取る中、その後1時間ほどして、1回大きく溜息のような呼吸をして亡くなりました。

★2000年の10月半ばの夕方、深川のお稲荷さんの境内で、「キャキュキョ」といって家人の前に姿を現してから、14年と7か月本当に私達を幸せにしてくれた猫でした。

★初めは八王子の団地だったので、飼うつもりもなくて、家人が当時勤めていた深川のCM会社の倉庫で遊んでいて、近所の子供たちの人気者でした。

★大人は「熊の子みたいだ。ブスだ」と言われましたが、不細工なぬいぐるみのような黒い猫は私達には素敵でした。

★土日は小さな籠に入れて家人が八王子のメゾネットになっている団地に運んできました。

★やがて誰も引き取り手がなく飼う事になりました。

★初めは猫が苦手な母も、次第にアビの可愛さにとりこになっていきました。

★黒くとても痩せてスマートで寒がり屋だったので、深川の近所で呼ばれていた「クマ子」はあまりにも可哀そうだとアビシニアンのアビと私が命名しました。

★やがて、大泉の劇団の事務所にわたしや劇団員たちと一緒に過ごした何年かがあって、そこでは「阿鼻叫喚」のアビだとも言われて、でも劇団員にもかわいがられました。そしてここ東村山にやってきたのです。

★猫舌の定説を覆すように、お湯が好きで風呂桶に汲んだお湯を飲み、私や家人が交代に風呂に入るとやってきて、風呂の蓋の上に乗り、浸かっている湯をぺろぺろと舌を器用に巻じゃくって掬っては飲んでいました。

★そんなにすきだったお湯も小さな注射器で入れてあげても、昨日はほとんど飲めないようになり、私達は覚悟を決めました。

★もう何日も前から苦しそうなアビを見るたび、涙がこぼれそうで仕方がありませんでした。

★不器用な小生は水を旨く注射器で飲ませてやることも出来ず、もっぱら家人にまかせ、たださすって声をかけてやるだけでした。

★命ある者はやがて滅すという絶対があるにしても、なんとも悲しくやり切れないここ数日でした。

★アビも深川で家人に出会えて幸せだったと思います。私たちはもっともっと幸せをアビからもらいました。

★ありがとうアビ。永遠に・・・・また会おう必ずな。

★本日は小生は、近くの病院に行きやっととりあえず、1つは抗生物質を1週間のみ治りましした。2週間置いて精密検査という事になりました。左手のバネ指と右肩の痛みは整形外科が貴君曜日はやっていなかったので、連休明けに診てもらう事にしました。

★一端帰ってきて、東村山の駅前のドコモへ行き、1時間待って、無料で契約した数種類のあまり関係のない契約を破棄する手続きをしました。

★後はアビの心配をしながら、新聞の片づけなどをしましたが、とうとうアビは旅立ってしまいました。

★アビを愛し、気にしてくださった方々ありがとうございました。アビはそんなに苦しまずに旅立ちました。

★アビは先に2月頃亡くなった家人の友達家の猫のお墓の傍に埋めてやるつもりです。

★しばらくはペットロスのつらい日々が続くと思いますが、7月の芝居に向けて懸命に頑張るのみです。

★本日これまで。おやすみベィビー!また明日。

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プロフィール

G.C(グランド・キャノニオン)

Author:G.C(グランド・キャノニオン)
G.Cことグランド・キャニオン・ビリーブ・ミーこと高貴な谷、つまり 高谷信之のこれはブログです。

G.C(ジードットシー)は1972年からNHKラジオドラマを約80本書き、映画、テレビ中学生日記等主にNHkのシナリオを手掛ける。【ラジオドラマ】「枝の上の白色レクホン」では、芸術祭大賞をとり同じく『天主堂』ではギャラクシー賞優秀賞をとる。
また若者たちと劇団ギルドを1999年に立ち上げ、20年続け、37回公演で2018年秋解散した。70代後半に向かい、演劇のプロジェクト、あくなき、小説・演劇・シナリオの挑戦創造に賭けており、また日本放送作家協会の理事は岩間良樹理事長の時代より20年以上続けた。
他に長崎県諫早図書館・壱岐未来座等のシナリオの書き方、演劇の演出講師、指導等もしている。

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