昔からの友人

蛍舞台風景6

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台です。 撮影 向 操

★さて、本日は夕方家人がアビを病院へ連れて行った後、昔からの友人Sさん親子がアビの見舞いがてら来てくれた。

★ほどなく家人が帰ってきて、夕食を4人で食べる。

★アビの事もあり、お見舞いがてらやってきてくれた。

★久々に気の置けない仲間と短い時間ではあったが、いろいろ語る。

★アビはやはり自分の力では水が飲めない。家人が水を注射器で飲ませてやり、練餌を口に入れてやる。舐めながらなんとか食べる。

★数日前には、一晩中夜泣きのように鳴いていたのに、部屋から部屋へお気に入りの場所3か所へ時々ヒョロヒョロと移動はするが、もうほとんど鳴く事も止めてしまったようだ。

★頭や背中を撫でてやる以外手立てはない。

★頑張ってほしい。なんとしても元気になって困らせてほしい。祈るだけだ。

★本日これまで。おやすみベィビー!また明日。
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theme : ひとりごとのようなもの
genre : 日記

きついがやれないことはない。

蛍舞台風景5

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台です。 撮影 向 操

★さて、本日は13時より、市ヶ谷で理事会。14時半に終って、急ぎ四谷~上石神井経由大泉の病院へ行き定期検診。

★3時の予定が間に合わず(間に合うわけないよな)30分遅れて、採血の後、胸部レントゲンと心電図を撮ってもらう。

★4時半ごろより診察を受ける。ヘモグロビンA1Cは8.1まで上がってしまった。

★甘いものを食べすぎたのか?不摂生か?なにしろこの数字は過去2~3か月の生活に於いての数値だから2~4月までの数値なので、芝居の時の無茶とは関係ない。血糖値161。

★よほど節制しないと本当にやばい。

★その後大泉学園でSさんと40日ぶりくらいに会い、色々と語る。

★全く種類の違う3っつの事をやったので、へとへとかと思ったが、そんなでもない。

★帰ってきて、ビデオのスポーツニュースを見たりして、静かにすると、右肩が強烈に痛くなってきたりする。

★明日から連休に入るが、家人は連休は休めなくて、逆に朝早く6時起きが続くので、大変になる。

★アビは相変わらずで、ドンドン痩せてくるようで、哀れでならない。小さい注射器を家人が買ってきたので、夜中抱きかかえて、それで水をやるが、やはりあまりうまくいかず、水は喉の奥へうまく入っていかない。

★連日家人が医者に連れて行くがいつまでもつか。切ないことである。

★抱きかかえ、「お前死ぬなよ、元気になれよ、がんばれ」と囁きかけるが、いつもより、目がとろんとしている。

★奇跡を信じたい。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 日記というか、雑記というか…
genre : 日記

次の公演に向けて

蛍舞台風景3

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台です。 撮影 向 操

★さて、今日は次の公演に向けての話し合いをしました。

★7月の公演は少人数での公演を考えているのですが、もう1名が決まりきらず、改めて、何人かに当たるような段取りを確認しました。

★新たに加わってくれたスタッフもまじえて、色々検討しました。

★劇団ギルド34回公演「あらゆる星々の下で」(仮題)
時・7月24日25日
於・上野小劇場。
前売り2500円
稽古は6月16日~夜・週5回程度
現在女性或いは男の出演者募集中です。
ワークショップは5月12日・14日です。
宜しくお願い致します。


★連休という人と会いにくい期間ではありますが、なんとか頑張りたいと思っています。

★それからこれは個人的な事ですが、アビがますます元気なく、本日も家人が医者へ連れて行き、注射を打ってもらったのですが、かなり腎臓がばてているみたいで、こうなるとかえって水等を苦しいのか飲みません。

★注射器でゆっくり、水を飲ませてやっているのと、チューブ状になったペーストタイプの餌をなめさせるようにはしているものの、そんなには口に入っていきません。

★寿命が近いのでしょうが、そうは思いたくないので、なんとか回復して元気になってほしいと祈るような感じです。

★本当に頑張ってほしいです。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。

theme : 今日の出来事
genre : 日記

私と演劇49もしくは映画6

蛍舞台風景4

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台です。 撮影 向 操

★私と演劇49 「映画6 観客として」

★さて、小学校4、5年は何故か新東宝の映画をよく観に行った。高宮敬二、吉田輝男、寺島達夫、菅原文太等がハンサムタワー等と売り出していた頃だ。

★森繁久彌が東宝へ移る前で、サラリーマン物の主役をやっていた。その他は天知 茂、高島忠夫、女優では三原葉子等が「女王蜂の怒り」とか「女王蜂の逆襲」等という映画に出ていたように思う。

★思うというのは、観たことは見たが、正確な事は分からない。正確な年代とかのデーターを知りたい方はネットで調べてほしい。ただ、ネットは間違いが多いが。

★中学の後半になるまで、洋画はあまり見なかった記憶がある。新東宝の次に見た映画は松竹が多かった。後に東宝、大映、東映では子供向けの「白鳥の騎士」「笛吹童子」「紅孔雀」等、NHKのラジオドラマからの映画は見たが、いずれも大人の映画を観ていた。

★一つにはその頃配給会社によって上映館がきまっていて、静岡ではそれぞれの映画館は大体近いところにあるのだけれど、子供ながらにその利便性や何しろ情報がないので、映画館に貼ってあるポスターを見て映画を選択していたからだと思う。

★そして又。その頃学校で時に連れて行く文部省推薦の映画の他、子供向きの映画が少なかったせいもある。今のようにアニメ映画はなかった。

★当然ませていた小生はポスターをみては海女の姿に刺激されたり、なんとなく扇情的な題にひかれて、新東宝のややエロチックな映画を選択していたように思う。とにかく映画が好きで見まくった。

★一番覚えているのは小津安二郎の「彼岸花」等をみて、涙を流していた。

★その頃小生の家は、過度の貧困のゆえに母と父方の祖母と父の三つ巴の喧嘩が絶えなかった。

★一方小津の映画は親たちが、娘のお見合いや結婚に一喜一憂しているという部分しか見えてこなくて、「ああ、家庭とは本来こういうどうでもいいことで親が心悩ませたり、子が親の気持ちを察したりするのが当たり前なのだ」と思った時に自らの家庭との違いに子供ながら涙を流していたのである。

★後に小津安二郎の国際的な評価や、床下から仰ぐカメラの角度等の知識を得て、もう一回見直したが、当時はあるべき家庭というものを突き付けられたようで、くやしさと、複雑な想いに涙がとまらなかったのが、一番のこの頃の映画鑑賞の強烈な記憶である。

★やがて、洋画を見まくるようになるのだが、そのことは次回に。

★アビは今日も具合悪く、家人が医者へ連れて行って、注射をしてもらう。自力では水も飲めない。哀れでならない。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。

theme : 伝えたいこと
genre : 日記

アビの具合がよくなくて。

2015-04-14 アビ食べさせてもらう

★写真は餌を食べさせてもらうアビです。

★アビの具合が一進一退だったのだけれど、ここ2日程はやはりよくない。

★水を自力で飲めなくなって、そうなると餌も自力では食べられない。

★お医者さんに連れて行って、注射を打ってもらっているのだが、水を飲めないと大変なのだ。

★注射器で飲ませてやるのだけれど、どうも小生そういう手先の事が不器用なので、家人が留守の間はうまく飲ませてやることが出来ない。

★猫は基本的に夜行性なので、元気な頃は昼間はいつも寝ていて、夜になると、起きだして、食べたりのんだり、ウロウロしたりという状態だった。

★ところが具合が悪くなると、昼間もしょっちゅう目が覚めて、そのたびにいつもとは違う苦しそうな鳴き声で、部屋から部屋へウロウロし始める。

★何せ甲状腺の病なので、どちらかというと、交感神経がおかしくなるのか、興奮というか躁状態になって泣きながらウロウロするのかもしれない。

★時々抱き取って膝の上で撫ででやると、以前よりは小さくゴロゴロ言っていったん静かにはなるのだけれど、それで治まる時と放すとまた鳴きだす時がある。

★朝とか、夜中も具合が悪いのか、日によって鳴き続けているときもある。朝はこちらを起こして、こちらが起きて、声をかけると安心して自分は眠ってしまうような時もある。

★夜鳴き続ける時は、子供の夜泣きと同じようになるので、家人も小生も睡眠不足になる。

★とはいっても、子供みたいなものだし、まして物言えぬ動物であるから、やせ細って毛の逆立ったアビを「よしよし大丈夫だよ」とか「ごはん食べないとだめだよ」とか「水だけでいいから飲めよ」などと優しく言いながら、撫でてやるしか能がない。

★アビもやがて15年目になるので、明らかに老猫で、老々介護のようになってきている。

★こちらも肩とか左手のバネ指とか、もう一つ若干おかしなところがあるので、なんとなく気が滅入りそうになる。

★だが、これではいけないと奮起している昨今である。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。


theme : 今日のつぶやき。
genre : 日記

私演劇48もしくは映画5

蛍舞台風景2

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台です。 撮影 向 操

★私と演劇48 「私と映画5 観客として」

★さて、前にもふれたかと思うが、私が初めて映画を観たのは嵐 寛十郎の「鞍馬天狗」とジョニー・ワイズミユーラー「ターザン」であったとおもう。その前に今井正監督の「ひめゆりの塔」という映画につれていってもらい、見ているうちに気持ちが悪くなったのが初めかもしれない。

★ただ、鞍馬天狗とターザンは、長野県の須坂市の駅前の電気館という映画館に一人で観に行った。昭和25乃至は26年頃のことである。この頃親たちは働くのに忙しく、子供を映画に連れて行ってやるという時間と余裕はなかった。それゆえ、なにがしかの入場料を握らされ、学校が終わってから1里ほどある雪道を一人で歩いて観に行った。

★これはしかし、小学校2年が3年の子供にとっては大冒険だったのである。歌の文句じゃないけれど正に「行きはよいよい、帰りは恐い」である。行きがけは学校終ってからの昼間であるから、日も出ている。しかし、映画を観終わって、帰る頃にはとっぷりと夜の帳が下りて、雪道は自分の身の丈より高く、道の両側にそそり立っている。

★しかも、当時は街燈がそれほど整備されていない。というより、ほとんどないのである。そんなまっくら闇の雪道を時には吹雪の時もあり、一人で7歳か8歳の子が雪にまみれて4kmの夜道を帰ってくるという事は大変な事だった。

★さっきまで見ていた鞍馬天狗もターザンも決して助けに来てはくれない。でもその恐ろしさを毎回わかっていても、映画が新しくなるたびに映画館に行った。今でも不思議に思うのは、テレビもラジオの案内もなく、ましてぴあとか映画の紹介誌もないころ、どうして、「ターザン」や「鞍馬天狗」の上映しているという事を知ったのかということである。

★おそらく大人(多分親が)がここで、これをやってるから、観に行ってくるかい?と忙しい中で教えたに違いない。両親ともいない今では、たしかめる術もない。

★このようにして、私達の世代にとっては映画は唯一の夢の道具であり、それを又手に入れる為には、スイッチをひねるとか、電源を入れるなどという簡単な事では得ることの出来ない、大変厄介で、冒険心のいる代物だったのである。

★小3の冬、一家が静岡県のあの天女が舞い降りた三保の松原に引っ越してきて、暫く映画は見られなかった。三保に映画館はなかったからである。

★当時東海大学の教授をしていた母の兄、つまり叔父が大学の寮に居候として部屋を手配してくれたからである。

★父も長野の須坂での日本測定器という後のソニーの前身の軍需工場の残務整理をまかされ5年かかって、撤廃と解体処理をやり終えた。

★広大な土地に地元の反対を説得して長野刑務所を誘致したり、大変な事をやったのだけれど、東京に出た新生ソニーにとってはもう必要のない人間にされてしまった。

★そのため、静岡から横浜方面に就職を依頼し、一家をとりあえず三保の叔父さんに預けたのである。

★そしてそこも3か月ほどで、いられなくなり、静岡市へ一家は移る。 公営アパートの二室が借りられるはずが、引っ越す人が事情でやめたとかで、その一室6畳一間に横浜に稼ぎに出た父を除いて一家6人が住み着く事となる。

★そこでまた、親の目や金を盗んでは映画をよく見た。新東宝の映画が何故か多かった。森繁久彌の売り出しの頃のモノクロ映画で木下藤吉郎を描いた映画や、失業したサラリーマンを演じる森繁には子供心にも、この人は天才だと思わせる何物かがあった。

★後年森繁久彌さんと日曜名作座の仕事(脚本)が出来たことは感無量であった。

★話はそれるが、劇団の若い24と25歳の2人はモリシゲヒサヤを知らなかった。知らないでは話は続かない。唖然としたが、もうそういう時代なのかもしれない。

★若尾文子や南田洋子がセーラー服で出てくる「十代の性典」等も小学生の身で見た。どんな内容かは忘れてしまったので、後年三軒茶屋の有るところで上映するというので、確かめるために観に行ったら、運悪く映写機が故障してしまい、見る機会を失した。

★題名がすごいだけで、それほどエロい作品とも思えないが、いまだに分からない。DVDは出ているのだろうか・・・・

★長くなったので本日はこれまで。続きは次回。

★今日はテレビ朝日アスクの新学期のシナリオ講座の日で、2時間熱弁をしてきた。

★実は4日ほど前から体調を壊していたが、案の定具合が悪く、本日医者へ行った。抗生物質を飲み1週間様子を見ることになった。

★まあ、大丈夫だろう。何があってもおかしくない、年ではあるが。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。

theme : みんなに知ってもらいたい
genre : 日記

私と演劇47もしくは映画4

蛍舞台風景1

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台です。 撮影 向 操

★私と演劇47 「私と映画4 追憶という映画」

★1994年の事である。しばらく映画の本編から遠ざかっていた橋浦 方人監督から声がかかって、東映で映画をとるから脚本を手伝ってくれないかという事になった。

★映画は総務庁の企画による映画で「追憶―二十五年・その夏」という本格的な映画だった。

★映画屋の伝統とも言うべき、旅館に籠って監督と脚本を書くという作業が始まった。場所は銀座の古い旅館で、助監督が箱書きの小さな紙を壁に30枚ほど貼って討論しつつ書き進めていくという方式だった。

★ちょっとこれには参った。今まではテレビにしろラジオにしろ、あらかじめ打ち合わせを十分にして、家に持ち帰り原稿を書き、出来上がった第一稿を提出して、検討討論をして、更に持ち帰り書き直すという手順だった。

★しかし監督との(あるいは相手が監督でなくとも)共同脚本である以上は、こういう書き方でなくては進まないのかもしれない。

★日頃の習慣から、自宅へ持ち帰りしかもできれば誰も寝静まった深夜、パソコンに向かいセリフやト書きをひねり出すという方法に慣れてきた身としてはどうにもアイデアや、いやアイデアはともかくとしてセリフ等が書き進めない。大分苦労をした覚えがある。

★また橋浦監督は小生の後輩でもあるので、気心が知れすぎていて、逆に設定とかセリフに関しては意見が対立するとお互い譲れないという側面もあった。

★そのため、京橋の東映の本社で、時に社員が仕事をしている部屋で大声で言い争いになり、社員に呆れられたりもした。

★しかし、結果的に脚本は優れた物になったと思う。主役には氾 文雀さんを推薦し、たまたまそれが通り、林 隆三さん等も競演して、自画自賛になるが、ドラマとしては実に良質な一般の映画館でも上映したいほどの作品になった。

★プロデューサーの岡田 順徳さんも相当に頑張って、千葉のロケの他に東映にこの種の映画では異例のセットを組んで撮影した。お蔭てこの作品は相当の赤字になったらしい。

★物語は25年前に文学賞を撮った青年とその恋人がその歳月を経て再会し、その娘も絡んでくるという淡くまたビュアーな世界を描いた。

★ラジオドラマの執筆と重なっていたせいか、そう何回もいけなかったが、何回か撮影所に見学に行き、演技のアィデァなども出した。

★ワンシーンであるが、セリフの無い背景的な役も演じさせてもらった。

★相対的に戸惑う事もあったが、中身の濃い良い仕事をさせてもらった。

★橋浦監督は地味だが淡々と人間を描く事の出来る稀有な監督で、現在の処自主映画「置けない日々ー青春散歌ー」を除いて「星空のマリオネット」「海潮音」「蜜月」「追憶ー二十五年・その夏」しか監督していないが、本当に惜しいと思う。
今からでも遅くない、是非、集大成の作品を作ってほしいとひたすら願う日々だ。

★またこの映画は監督を除き氾 文雀さん林 隆三さんとプロデューサーの岡田さんまでが亡くなり、何ともさみしい限りである。

★特に氾さん林さんとはラジオドラマで何回かご一緒に仕事をして、本当にいい役者でもあり残念な事であります。

★1990年代は本当に忙しくテレビ・ラジオ・映画と仕事をさせてもらったけれど、この映画は散々苦労したという事もあり、心に深く残る仕事であった。

★本日は夜北千住のシアター1010のミニシアターで、平石 耕一事務所の芝居「自り伝(ひとりでん)」其之弐~江戸編を観に行きました。江戸時代の反逆医師安藤 昌益を扱ったシリーズの2で、今回は珍しくミステリー仕立ての運びに実に深いテーマを盛り込んでの舞台で、本当に面白く拝見しました。

★ただ、こんなにいい芝居なのに、お客が少ないのが残念でなりません。

★まだ始まったばかりで、24日14時 19時。25日14時26日14時とやっています。

★興味のある方は是非! 見て損のない芝居なので是非どうぞ。

★芝居の後暫時一緒に飲み歓談しました。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。

theme : みんなに知ってもらいたい
genre : 日記

相変わらず調子が悪く

2 2015年4月18日定点

★写真は多摩湖の定点観測写真です。

★さて、どうも夕方になると熱っぽくなり、調子が悪い。

★某シナリオコンクールの審査の締切が明日で、約半分ぐらい読むが、参った。

★熱っぽい時はえてして活字は読みたくない。こうしてパソコンに書き込むこともしんどい。

★そこへ持ってきて応募原稿である。愚痴になるが、本当にきつい。まともなシナリオが少ないからである。

★普段の倍時間がかかる。しかしこういうときこそ、きちっと読みきちっと評価しなければならない。

★といったわけで、本日ブログはまともに書けませんでした。

★それにしても結核でもあるまいに、夕方から微熱が出るというのはなんなのだろう。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : つぶやき
genre : 日記

調子が悪い

2015年4月18日の多摩湖

★写真は多摩湖の風景です。

★さて、今日は午後、中央公園を1周と半分歩いて、久々に右肩のマッサージを受けに整体師のところへ行く。

★ダイエーによって、100円ショップで自転車のサドルカバーを買ってきた取り替える。

★戻って、さるコンクールの応募原稿の審査をしようとするが、何とも熱っぽくて、仕事にならない。

★すぐ寝ればいいのだが、夜型に就寝時間がずれてしまっているので、すぐ寝るわけにもいかない。

★12時を超えて、なんとか早めに床に就こうとしている。

★4月16日私と演劇45 わたしと映画3で止まってしまっているシリーズを書こうと思うのだが、熱っぽい頭ではまとまらず、次へ送ることとする。楽しみにしている方はごめんなさい。

★日替わりでアビは食欲が出て元気になり、今日はまあまあである。今日は一晩中苦しそうに鳴く事は無いと思うので、小生が元気になるように眠る。

★今日は曇り空だったけれど20度くらいの気温で、やっと春らしくなった。明日からは快適な日が続くらしいので、それに追いつくように躯をしゃんとさせよう。

★本日これまで。おやすみベィビーまた明日。

theme : ひとりごとのようなもの
genre : 日記

見かけでの判断

水鳥 鵜か

★写真は多摩湖の池で見た水鳥多分鵜の羽ばたきです。

★さて、小学校6年の時の同窓会でとんでもない誤解を解いたという話である。

★当時今のように写真をお互いに撮るような状態にはなく、たいていが集合写真だった。

★典型的なのは修学旅行で東京へやってきて、皇居の二重橋の前で皆で撮った写真がある。

★この写真、秋だったので、もう翌年の3月の中学進学に備えて、男は皆黒い詰襟か襟のフラットな小学生用の黒い制服を着ている。

★中に二人だけ、しゃれた毛糸のチョッキに白いYシャツに半ズボンという子供が2人映っている。


★一人はK君。残念なことに数年前に亡くなってしまったが、一人は小生である。

★おまけにわたしは白いしゃれた丸く淵のある帽子までかぶっている。

★この写真が皆の記憶に強烈に残っているため、小生はいいとこのお坊ちゃんと思われていたらしい。

★事実は逆で、皆の着ているような制服を買う金がなくて、東京の親戚から小包で送っていただいた、いとこのお古を着ていたのである。

★その頃5人兄弟に祖母を入れて8人家族。父の働きがままならず、しょっちゅう職を変えたり失業していて、かろうじて母の稼ぎから一家8人が食べていた時代である。

★一日おきに素うどんとか、みそ汁と海苔のない塩結びに沢庵だけの夕食であり、畳は藁に成り果てて、新聞紙を敷いた藁の下の床の隙間から、木枯らしが吹き上げていた時代である。

★一応、日本はやっと朝鮮戦争特需によって経済が上向きになっていた頃だった。

★とにかく、周りに比べてひどい貧乏だった。

★しかし、着ている服がしゃれたお古だったために、小生は一部の特に服装に敏感な女の子たちからいいとこのぼっちゃんと思われていたことは実にショックでもあり、やはり人間は特に純粋な子供であればあるほど、服装や見かけで、判断するという当たり前の事を同窓会で学んだ。

★小生が他の家と比べてもものすごく貧乏だったという事は、昨日の酒席での会話では伝わったかどうかは怪しい。

★誤解を解くべく当時の状況を説明しても「そうだったの・・・・?」とあまり信じていないようだったからだ。

★それはどうでもいい、60年も前のことなのだから。しかし、人はやはり服装で人を判断するという事には殊更意を強くした。

★それもあって、芝居をずっとやっていながらもラフな格好は未だに苦手である。どちらかと言えばジャケットをちゃんと着て、ズボンもどちらかと言えば、Gパンや綿パンでない物の方が落ち着くのである。

★70を過ぎて、近頃ちょっと見は普通のズボンに見える黒いGパン等にやっと慣れてきたような具合である。

★結局昨日は慌しく夜中に帰ってくるのも疲れると思い、静岡に泊まり。今日はどこにもよらず朝10時過ぎに静岡を出て、1時過ぎには東村山の自宅に着いた。ちょっと間違うと、静岡から東京駅迄の方が時間はかからないのである。まあ、便利な世の中になった。

★風雨が激しく春の嵐のようだったので、早めに帰ってきて助かった。と書いて年は取りたくないものであると更に思う。

★だって、昔は嵐を面白がっていたじゃあないか。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 日々のつれづれ
genre : 日記

同窓会

静岡600
★写真は静岡の夜景です。

★さて本日は静岡で小学校の6年の時の同級会でした。

★生まれは東京ながら、小生小学校3年~高校3年迄静岡で育ったので、昔の友達はほとんど静岡なのです。

★本日は20名程、約クラスの3分の1が集まって、中には60年ぶりに再会した友達もいて、大変盛り上がりました。

★さすがに70過ぎているので、二次会は8人にへりましたが、スナックへ移動してカラオケ三昧です。

★やっぱり小学生の面影はそれぞれ残っていて、あのイタズラ坊主、あのわんぱく者がすっかり大人になり、さらにそれを通り越して、おじいさん、おばあさんになっていました。

★それでも会えば1分で、少年と少女に戻ってしまうのは、本当に同窓会は不思議です。

★その 不思議さに引かれて東京から静岡にやって来た次第です。

★本日これまで。おやすみベィビー!また明日。

久々の散策

多摩湖遊歩道

★写真は多摩湖遊歩道です。

★遅咲きの山桜か八重桜がまだ咲いていました。

★本日は久々に家人が休みで、小生も休みが取れたので、多摩湖の入り口まで自転車で行き、歩いて多摩湖に行きました。

2015年4月18日の多摩湖

★やっと暖かくなり、風も思ったほど強くなく、素晴らしい天候になりました。

★土曜日なのに意外と人は少なく、犬を連れて散歩する人が相変わらず、多く、又はやりなのか、犬も足の短い小さな犬にずいぶん沢山会いました。

★多摩湖の土手を二羽のツバメが水平に地とギリギリに飛び交っていました。鳥たちに比べると、ペットになってしまったがために、色々な動物がいる中、犬だけがリードやロープを掛けられての散歩で何とも気の毒になりました。

★彼らが鳥たちのように気ままにロープなど無しに地を走る日は来ないのでしょうか?

★それにしても、あふれるような緑の中に居ると、人の心は本当にゆったりとして落ち着きます。

★せめて「1週間に1度とか3日に一度こういう処を散歩できるといいね」と家人が言います。

★「その為にはここに引っ越してこないとな」と私。

★「この近くだったら、安く一軒家が借りれるよ」と家人。

★なるほど、そういう手があったか。しかしそうすると、都心に通う事が今でさえ相当おっくうなのに、大変な事になります。

★「全部止めて、月1、2回都心に出るだけでいいようになればな」と私。

★そんな日が来るのでしょうか?田舎へ早く行って、小さな畑でも耕したいと言っていた家内の夢は、ほとんど現実性がなくなりました。

★「倒れる迄芝居をコイツはやるんだな、だったら仕方がないからそれまで私も手伝うか」という諦めの心境に家人は昨年くらいからなってきているようです。

★始末に負えない男です。小生は・・・・全くの話。

★アビは一時より元気になり、自力で水を飲み、自力でご飯を食べられるようになり、ほっとしています。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 今日の出来事
genre : 日記

これからの劇団の展開

蛍舞台写真e

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台写真です。

★さて、次回公演のスケジュールについて検討するミーティングが本日行われ、大まかなところが決まりました。

★詳しくはHPのヘッドラインで近く発表しますが。

★7月25日(土)と26日(日)於上野小劇場での4回の小公演高谷信之作演出「あらゆる星々の下で」(仮題)です。

★こちらの公演に関しては出演者・脚本を調整中で、近々発表となります。

★また今年10月29日(木)~11月1日(日)は下落合Taccs1179で高谷信之作演出「’60~18-1960年君は18歳だったー」を上演する事が決まりました。

★10月公演は大がかりなもので、出演者も現在募っております。これは1960年~1975年くらいまでの自伝的な作品でもあり、2009年夏グリーンシアターで上演した「十二双川物語―坦と榛子の昭和ー」の続編に当たる作品の上演という事になると思います。

★どうぞご期待ください。


★本日これまで。おやすみベイビー!また明日。

theme : みんなに知ってもらいたい
genre : 日記

私と演劇46もしくはもしもあの時

蛍舞台写真c

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台写真です。 撮影 向 操

★私と演劇「46 もしもあの時」

★さて、もしもあの時・・・・という事を言っても虚しいけれど、もしもあの時という事は人の歴史にはいろいろある。

★しかも。当の本人が知らぬ間に自らの運命が変わってしまうという事が往々にしてあるのだ。

★色々あった中で審査というのはそうした人生の岐路に立ちあったり、そうした岐路を選定してしまったりする。

★一番目はある時前述の橋浦方人監督から電話がかかってきた。内容は、「星空のマリオネット」という映画を撮るためのオーディションをやったのだが、主役の1人をどっちにしようかと決めかねている。一人はつか こうへいの処で芝居をやっている三浦洋一という者だ。こいつがいいと思うのだが、あいにく彼の舞台を見たことがない。あんたは見たことがあるのかという電話だった。

★私は見たことが有ったので「ああ、観たことあるよ、彼なら大丈夫じゃないか、中々芝居の出来る奴だよ」と答えた。
「そうかありがとう」と言って橋浦監督は電話を切った。

★それから数日して「星空のマリオネット」というATGの映画の主役は三浦洋一に決まった。その後テレビの新シリーズ「7人の刑事」に刑事役で出たりして、三浦洋一は有名な役者になった。残念なことにお亡くなりになったが、私とは1回も仕事をしたこともなく、彼はそのことを知らずに亡くなった。

★いや、知ったからどうという事ではなく、もしあの時の電話に「ああ、彼の舞台は見たけど、あまりパッとしなかったぜ」と言っていたら三浦洋一の運命は変わっていたかもしれない。

★その後やはり「海潮音」という映画を橋浦監督が撮るときにオーディション用の台本を作ったり、小生も審査員として参加した。この時は烏丸せつ子とTという女優が最終候補になった。審査員は5人で監督やプロデューサーの意見が2対2に意見が分かれた。

★そこで、最後の1票が私という事になってしまった。私は烏丸を推した。エチュードの時いきなり床に寝て演技を始めたことに1日の長があると思えたからだ。この映画の審査は3対2となり、烏丸に決まった。

★この話には続きがある。後年その時落ちたTという女優が私の書いたNHKのラジオドラマに小さな役で参加してきた。
彼女のスタジオでの最悪な態度を見てしまった私は、密かにあの時烏丸に票を入れて良かったと思った。だがT本人はそんなことは知る由もない。もし「海潮音」で合格していれば、彼女の女優としての行き方も変わっていたかもしれない。
しかし、それは分からない事だ。

★ある時NHKのラジオドラマのシナリオコンクールで最終審査に上げる10本が決まった時が有った。一人の審査員が言った「そういえばさー、2次審査の時に読んだ時代劇のシナリオ、あれ良かったと思ったけどいつの間にか消えてるね」と。すると、事務員がここにありますよとその作品を持ってきた。

★審査終了の時刻まで、あと15分有った。その時の審査委員長が「じゃあ、高谷さん、あなた読むの早いから、それ読んでみて」と言った。私が読むと、最終候補に挙がっている中よりもかなり上質であった。結局その1本は最終候補に敗者復活のようにしてのこり、やがてグランプリを取った。

★しばらくして、NHkのテレビで時代劇のシリーズが始まり、その執筆に決まった3人のライターに一人新人を付け加えることになった。そこで、たまたまラジオのシナリオコンクールでグランプリをとったその人に白羽の矢が立った。

★こうして、ラッキーな事にこの方は10年程経って朝ドラを書くことになり、それも視聴率に恵まれて、次に大河ドラマを書くことになった。

★やはり、人生にはもしもという事がある。そこに15分という時間がなかったら、読んだ小生が「これは、たいしたことないよ、2次で落ちるはずだよ」と言っていたらこの人の人生も大きく変わっていたかもしれない。

★私は何も自分の審査力を自慢しているわけではない。誰に限らずこうした本人の知らない処で、何かの岐路に立たされ、運を開けていく人。あるいは運がなく、失敗していく人がこの世界にはあるという事だ。

★勿論チャンスは1度だけではない。1度失敗しても、力のある者は必ず復活したり、別の道を通って、成功への道を辿ることになるだろう。そのためにひるまない努力だけは怠ってはいけないと思うのです。

★今回の話はここまで、また次回に。

★本日は下北沢に吉村ゆうさんの「東京ハイビーム」の公演を観に行ってきた。小生にはまねのできない、相変わらず手慣れたライトコメディーで楽しませてもらった。終って、しばらくぶりに会ったJ-Theaterの小林 拓生さんと吉村さん等と語り合った。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : みんなに知ってもらいたい
genre : 日記

私と演劇45もしくは映画3

蛍舞台写真d

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台写真です。 撮影 向 操

★私と演劇 「45 映画4今村昌平監督との縁」

★さて、随分と前のことである。人生と歴史にもしもあの時とかは常に虚しい思い込みに過ぎない。

★ただ1968年小生25歳の1月に、青の劇場という演劇ユニットを立ち上げラ・シーヌの「ブリタニキュス」を上演したという事は以前書いた。

★この年の3月今村昌平監督が「神々の欲望」という映画を企画し、それに合わせて、助監督を1人見つけることとした。
今でいう処の助監督オーディションである。

★何のつてが有ったのかは忘れたが、小生この試験を受けた。最初は論文の試験があった。はっきり覚えてはいないが「欲望」あるいは「私の欲望」というようなテーマで論文を書かされた。

★試験場には多分100人程の応募者がいたと思う。論文の試験に小生は合格して、最終審査の4人に勝ち残ったのである。

★同じ日かいいや、日を改めてだったと思うが、その残った4人の面接が行なわれた。

★狭い応接室のような暗めの空間で、今村昌平監督を初め浦山桐男監督等20人程の試験官に囲まれて面接が始まった。

★この面接で、私は浦山監督が粘っこく少しからみ気味に質問してきたのに、ちょっと反抗的に声を荒げて反論してしまった。

★それは親の事を聞かれ、戦後の経済成長の中で取り残され、貧乏を強いられた父の事を語った後のことだった。「そんな、お父さんを君は軽蔑しているのか?」というような質問が浦山監督から来た。「いいえ、尊敬しています」と私が言った。すると浦山監督は「それは矛盾しているじゃないか」と絡んできた。

★小生は「軽蔑して反面教師にしているところもあるが親子だから尊敬もしている」と答えればよかったのかもしれないが、なんとなく絡むように言って来た監督のいい方にカッと来てしまったのだ。若かった。

★そして「いえ、矛盾はしていません!」と切り返したのである。それから2,3激しい言い方のやり取りがあり、言いながらこの時ああ、駄目だろうなこの面接はという思いがあった。

★それともう一つ、当時私は身長167Cm体重47.5Kgであった。マラソン選手がそうであるように、本人としては充分に
持久力もスタミナもあり、誰にも負けない体力が有ったのだけれど、やはり人は見かけの印象に頼る。多分ヒョロヒョロで、体力も根性も無いように思われたのだと思う。

★その証拠にその時受かって助監督になったのは、後に「太陽を盗んだ男」とか3本程の映画を撮った長谷川和彦という身長も180くらいあり、偉丈夫な男であった。

★その時は最後の4人までせっかく残ったのにと本当に悔しい思いをしたが、やせ我慢ではなく、あの時受かっていなくて良かったと思っている。受かっていれば映画の道に進んだかもしれないが、これだけのラジオドラマやテレビドラマを書いたり、芝居を何十本も演出することは出来なかったと思うからである。

★ただ、浦山桐男監督の映画は好きだったので、その面接の場で口論のようになってしまったのは残念に思った。

★映画については本編の脚本も書いたりもして、その後ある役者のデビュの役割を担ったりもしたのだけれど、それらの事は次回以降に・・・・

★本日は六本木の脚本家連盟で、脚本家ニュースの校正に行ってきた。

★アビがまた日替わりの寒暖の差のように、昨夜は鳴きっぱなしで、家人も小生も睡眠不足でくたくたである。

★今日は水も飲み食べ物も食べて、おとなしくしているが、心配な事である。

★ちょっとした雷雨があったが、やっと東京は晴れて、気温も20度近くまで行ったらしい。ただ、夜はこの辺はめっきり冷える。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 伝えたいこと・残しておきたいこと
genre : 日記

私と演劇44もしくは映画3

蛍舞台写真a

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台写真です。 撮影 向 操

★私と演劇 「44 もしくは映画3 相米 慎二2」

★さて、「ションベンライダー」の小生による事前演技指導が終り、映画は1982年夏撮影に入った。

★最初は横浜の運河沿いの道などでの撮影が始まった。八騎人の麻倉淳子が出演することになり、当日撮影について行った。倍賞美津子さんの出るシーンのからみだったと思う。

★それから3日後くらいだったか、小生も出演することになり、横浜近くの食堂の前の道路に出ることとなった。

★主人公の少年たちと先生役の原 日出子が食堂で語っているシーンで、そのガラス越しに理髪店が使う青と赤のまだら模様の円筒の看板が見えていて、何故かその看板に仕掛けがあり、レールが弾かれていて、道路を看板がゆっくりと行ったり来たりしているという構図の絵である。

★私の役はその遠景の床屋の看板の前を、片足に包帯を巻き松葉づえで通りかかる男だった。男はつられるようにその行ったり来たりする看板に魅入られて、必死に右左と追いかけるというシーンだった。

★時間にして、3分もなかったかもしれない。しかも遠景なので、物語の筋とは関係がない。しかし、「このシーンは絶対カットしませんよ」と助監督がささやいた。

★なぜならその左右に動く理髪店の円筒の看板とレールにはそれだけで100万の予算をかけているから、簡単にカットはされないはずだと助監督は言った。

★真夏の炎天下、リハから本番にかけて、私は大量の水を飲んだ。そして、ヨーイスタートが掛かったとき必死に私は円筒の看板を追って松葉杖で3往復程歩いていた。

★私の額からは滝のように汗が滴っていた。たまたまその撮影を出番はないが見ていた藤 竜也さんが、終わってロケバスで着替えをしていた私の処まで、わざわざやってきて、バスの入り口のステップに足をかけて、「お疲れ様です」と声をかけてくれた。

★撮影の後で監督はにゃっと照れたように笑いながら「なんかやってたね」とぼそっと私に囁いた。私は満足した。

★そしてやはりそのシーンはカットされず、DVDにも入っている。

★その次の日、別の役で熱海へ行き撮影という事になった。しかし、湯河原の辺りの野外の撮影が延びに伸びて、結局行った日は撮影がなく、日帰りのはずが熱海に一泊泊まることになった。

★相米監督の長回しは有名だった。カメラは2台から3台で撮るが、1シーン1カットで15分~長い時は20分程の長回しで撮る。

★私の知る限り普通監督は、カメラマンとの打ち合わせや構図の事で撮影に時間がかかる。だが相米監督は違った。カメラマンはほとんど、あの場合、田村 猛さんに任せて、もっぱら役者(特にこの映画は少年少女が主役の映画だったので)へのダメ出しで時間を取る。

★したがって、スタッフも2つに意見が分かれる。そのことを良くわかっている助監督や何回も一緒にやっていたスタッフはそのやり方を尊重するのだが、初めてついたスタッフは構図も決まり、撮り方も決まっているのに、近所の食堂や喫茶店に役者を隔離して長時間出てこない監督にいら立ち「おい、これは何待ちなんだ!」と怒鳴る。

★そうしたスタッフをなだめるのが、相米組助監督の第一の仕事だった。

★そうやって、粘りに粘って、相米監督は素晴らしい映画を作っていった。

★ほとんど巨匠の域にまで達し、異色の作品を撮っていた彼が、あんなに早く逝ってしまったのは残念でならない。

★時々、彼が生きていれば、今頃どんな映画を撮っていたろうか等と考える。

★熱海では市の職員のような役で出た。いずれにしろ、相米監督とは不思議な出会いであり、貴重なたった1つの仕事であった。

★今当時の永瀬 正敏君や坂上 忍君。河合美智子さんが活躍しているのを見ると懐かしくも嬉しい。

★またあの作品で狂気のような役を演じていた、藤 竜也さんが、近く北野たけし監督の映画「龍三と7人の仲間たち」という映画で主演しているのは素晴らしいことでもある。

★本日はここまで。続きは次回。

★おやすみベイビー!また明日。

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私と演劇43もしくは映画2

蛍舞台写真G

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台写真です。 撮影 向 操

★私と演劇「43 もしくは映画2 相米監督」

★さて、1974年頃だったと思う。八騎人の稽古場に、稽古を観に来たり、時々遊びに来る男がいた。それが、日活の助監督をやっていた相米慎二だった。

★当時日活はあの裕次郎,旭の映画から方向転換して、いわゆるロマンポルノという路線を敷いて作品を作っていた。
低予算でポルノチックな作品を量産していたが、中には後世に残る名作も造られていた。

★ただ、相米という男の印象は私の中で最悪であった。誰に聞いたかは忘れたが、「相米はあの娘とあの娘とも付き合っているらしいですよ」と私に告げる者がいた。その一人は八騎人に出演している女優であり、もう一人は照明の助手をしていた女の子だった。

★「何だ。あいつは何者なんだ!」私が声を荒立てると「なんでも日活の助監督をやってるらしいですよ」との答えが返ってきた。それが相米さんを知るきっかけだった。

★当時私はほとんど酒を飲まなかった。また劇団員の中には飲めないメンバーが多かったったこともあり、もう一つには、ゴールデン街で酒を飲んで喧嘩をしたり、そこでの馴れ合いで仕事につながっていくという関係性が私は好きではなかったというか、ある種そういうことへの嫌悪が自分の中の拒否反応として持っていたからかもしれない。

★ゴールデン街で飲まなければ、どんなにいい芝居をやっても、演劇雑誌には載らず、載らないという事は岸田戯曲賞の候補にもならないという噂が流れていたからである。

★「よーし、それならば俺は一生ゴールデン街に足を踏み込まないぞ」と思っていた。現にどうしても付き合いで橋浦監督と2回程行き、その他後2回程しか、ゴールデン街で酒を飲んだ記憶はこの年までない。そんな演劇人はごくまれで、めずらしいのではないかと思う。

★それはともかく、相米監督とも酒を飲んだ記憶はない。

★そんな印象で始まって8年後、相米監督は「飛んだカップル」でデビューして、あの薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」で大ヒットを飛ばし、期待の鬼才監督になっていた。

★当時1982年夏「ションベンライダー」の映画を撮ることになり、その助監督をやっていた、矢野君経由で、その映画に入る前の新人の演技指導をやってほしいとの依頼が来た。そして私が日活の撮影所に行くことになったのである。

★当時の鈴木美智子(河合美智子)はまだ中学生。永瀬正敏も高校を出たばかり、坂上忍も子役の経験はたくさんあったとはいえ、まだ高校生か中学生だった。一週間から十日位の期間、発声やエチュード、気持ちの解放の仕方。歌を歌わせたりした。

★この期間面白かったのは、河合美智子は子供なので、坂上忍はテレビなどでよく知っていた為、初めからかなり行為を持っていた。処があるとき、私はそれぞれに好きな歌を歌わせた。すると、永瀬正敏が持参したテープに合わせて、テンポのいい、ロックのような歌を歌った。その歌は確かにあか抜けて、恰好良かった。

★その歌を聞いたとたん、河合美智子はすっかり、永瀬のファンになってしまい、今度は傍で見ていても分かりすぎるぐらい、坂上を止めて、永瀬にべたべたし出したのである。

★彼女の名誉の為に言っておくが、彼女がそういう男を転々とする女の資質を持っていたのではない。ただ年上のお兄さんにあこがれるような思春期の子にとって、心を変えさせるほど、永瀬の唄は魅力的だったのである。

★どちらかと言えば、九州なまりで、ボソッとして取り柄の無いような少年が、歌ひとつで人を引き付けた。やはり潜在的に永瀬正敏はスターになる要素を持っていたのである。その時私にはそれがわかった。

★さて、相米監督はプロデューサー泣かせで、あまり粘る為に予定がどんどん押していき、フィルムも食い、時間もくい予定していた予算を大幅に食うという監督になっていた。それだけの力量と有無を言わせない存在になっていたのである。

★ある時日活の食堂でプロデューサーと相米監督と食事をしていた。その頃私がラジオドラマを盛んに書いていたのを知っていた監督が言った「ねえ、高谷さん、失敗した原稿用紙を惜しむ作家は居ないよね」「そりゃあそうだよ、原稿用紙を惜しんでいたらいいものは書けないからね」と私。「ほら、映画監督にとってフィルムは作家の原稿用紙と同じなんだよ、それを惜しむ監督なんてろくな作品を撮れないよ」と相米監督は言い切った。

★横に居たプロデューサーが、ご飯を砂を噛むような表情で食べていたのを私は見逃さなかった。

★相米監督は私を出汁に使って、フィルム代がかかりすぎて苦情を言うプロデューサーに当てつけのようにそんな話をしたのだと思う。

★相米監督との話は更に続くがそれは次回に。

★本日は夜7月の小公演の為の打ち合わせをした。1日中冷たい雨が降り真冬に近い気温11度くらいだった。春は来ない。

★本日これまで。おやすみベィビー!また明日。


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私と演劇42もしくは映画1

蛍舞台写真F

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台写真です。 撮影 向 操

★私と演劇 「42 わたしと映画1」

★さて、この辺で私と映画について語りたい。ただ映画の鑑賞体験から書き起こすと、また大変なシリーズになってしまいそうなので、それについては後日稿を改めて書こうと思う。ここでは、私と映画との創造活動について書きたい。

★一番最初に映画の製作と関わったのは1974年小生31歳の夏であった。今記録を当たると、ラジオドラマでデビューしたのが、1975年の7月25日に放送とあるから、その一年前という事になる。

★早稲田の劇団こだまの後輩であった橋浦 方人が自主映画を撮ると言い出した。言い出したのはもっと前と思うが、撮影が始まったのは夏であった。35ミリのフィルム作品で、「青春散歌―置けない日々ー」という映画であった。

★この映画で小生は劇団員と共に小劇団の演出家という役をもらって出演した。と同時にスクリプターいわゆる書くシーンの繋ぎの為に撮影したシーンをスクリプトするというスタッフを手伝う事となった。

★したがって、ほとんどがロケ・或いはロケセットであったが、全シーンの撮影について回って、橋浦監督とは親しかったので、撮影中色々演劇的にアドバイスなどもしたのである。

★その時感じたのは映画は徒弟制度がはっきりしているのと、自主映画でも助監督が3名程ついているという事を実に羨ましく思った。

★監督は常に脚本をどう映像にするかという事に全神経を配っていれば良くて、それ以外の段取りや準備的な雑務は全て助監督がやってくれるのである。

★当時八騎人では演出助手もいなくて、稽古場の押さえや何から何まで雑用をやらなければ、稽古が始まらない小劇団の演出と映画の監督の違いにまず驚かされ、羨ましく思ったのである。

★この年の夏も大変暑かったと思うが、秋にかけて、様々なところでロケをやった。当時私の実家があった東村山の聖書学院の校舎も、病院に見立てて、ロケをした。

★そこでは小生の母と父も出演した。父は、昔素人芝居で菊池 寛の「父帰る」の父を演じたことがあるというだけで、随分長いセリフの有る父親の役を演じた。

★その頃父は一度脳溢血で倒れて、リハビリの後で、少し足を引きずり、口跡もはっきりしなかったが、かえって淡々と語るセリフがリアルな感じで、小生が言うのも恥ずかしいが、実に存在感があった。

★映画はある若いPR映画を撮っている青年を主人公にした青春のほろ苦い映画だった。

★記録映画風に撮った手法も評価され、後に橋浦 方人がATG映画を撮るきっかけともなった映画に仕上がった。

★小生は稽古場でのシーンと映画の主人公を嫉妬させる恋人の女優と二人で中野駅を歩くシーンや、神宮球場でナイターのシーン等に出演した。中野駅を歩くシーンでは当時47.5Kgしかなかった私は出来上がったシーンを見るとまるで風に吹かれた小枝のように頼りなかった。

★稽古場のシーンは小生が台本を数ページ書き、ロケは当時の自由劇場を借りて撮った。このシーンでは、今も付き合いのある照明の明日(みょうが)さんも出演している。

★本当に大変なシーンの連続だったが、秋頃には撮り終えたと思う。撮影に同行して、芝居への私の情熱は屈折して内側で燃え盛った。同じ自主制作にしても、映画は様々な点で演劇より恵まれたように思えたからである。

★そのことが芝居への情熱に火をつけ、私は以前くすぶって何もしないでいたころ書いた自伝的な小説を改めて書き直して「魔都彷徨」―幻の母を訪ねてーという作品にして、その年の12月赤坂国際芸術家センターで上演したのだった。

★そして、それを見たNHKのIさんが私にラジオドラマを書いてみないかという話になり、翌1975年に「風に舞う木の葉のように」でラジオドラマデビューという事になったのだった。

★その頃、日活の助監督をしていた相米慎二が八騎人の稽古を観に来たりして、時々劇団に出入りしていたのだけれど、その話は次回へ。

★本日は暖かく、公園を1周歩く。でも明日は又雨で冬のような寒さになるらしい。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

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私と演劇41

蛍舞台写真E

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台写真です。 撮影 向 操

★私と演劇 「41 ラジオドラマの続き」

★さて、1984年からしばらく芝居と遠ざかる。その年ラジオドラマは前にも述べたけれど、二人の部屋、片岡義男原作の「美人物語」の脚色。4月2日~13日迄土日を除く10回15分がOAされた。

★そしてアドヘンチャーロードの枠ではエド・マクベインの原作87文書シリーズの1作目「警官嫌い」7月9日~20日までの土日を除く10回を脚色した。
この作品は山口 崇さん文学座の平 淑恵さん青年座の高畑 敦子さん等が出演し、中でも、高畑敦子さんの素敵な声とその演技には感動したのを覚えている。

★これは技法的に面白い作品で、主人公の警官の奥さんが耳の不自由だという設定になっていて、その彼女のモノローグで物語を進めていくという手法にたどり着き面白かった。

★その年の秋ラジオ劇場で、フォークシンガーの三上 寛原作の「お山参詣・東京懺悔」の脚色をした。

★一応原作はあったのだけれど、どうにもドラマにはならなかったので、苦労してほとんど創作に近い脚色だったのを覚えている。

★こうして、1984年は過ぎて行ったように思う。

★短いけれど本日はこれまで。続きは次回。

★どこがどうというのではないのだけれど、ちょっとだるく熱っぽく、気力がない。左手のバネ指がよくならない。

★そんなこんなで、ブログもあまりはずまないのです。ごめんなさい。

★気力を回復して頑張ります。

★お休みベイビー!また明日。



 

theme : 伝えたいこと
genre : 日記

私と演劇40

蛍舞台写真D

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台です。 撮影 向 操

★私と演劇 「40 運をもっているか?」

★さて、これより2年前、1982年の事だったと思う。相米慎二監督の「ションベンライダー」という映画の演技指導を撮影前の日活撮影所で頼まれた。

★相米監督との出会いと、一緒にした仕事については、長くなるので、稿を改めて書きたいと思うが、当時撮影の始まる前に、オーディションで合格して九州からやってきた、永瀬正敏と、今盛んに司会でブレークしている坂上忍、そして当時は鈴木と言った後の河合美智子ともう1人止めてしまったが、太めの男T君等4人を、撮影に入る前の10日間くらい演技の基礎を叩きこんでほしいという依頼であった。

★当時私は連日日活の撮影所に通い、この少年少女にエチュードをやったり、発声から歩き方、演技の基礎を短期集中で叩き込んだ。

★そして、その映画には私も出演したのだけれど、その話は後ほど。

★そんなことがあり、当時のプロダクション、キティーフィルムのマネージャーから中学生のタレント候補の女の子6人程を預かり、毎週土曜日か日曜日の1日ワークショップの指導をした。

★今のアナウンス学院の校舎を借りて、毎週3時間ほどの特訓を半年ほどやった。

★さすが気鋭のプロダクションが集めた中学生の女の子たちは、それぞれ個性もあり、授業を終わって新宿駅の方向に歩いて行くと、行きかう通行人が振り返るほど、いずれもスタイルもよく、かわいいタレントの卵だった。

★半年ほど教えたが、その中で、一番地味な感じでオーラもあまりないようなのIという子が、その後フジTVで主役をやり、その後はCMタレントとして、随分長くTVに出ることになる。

★今ではすっかりおばさんになってしまったが、名前は知らなくても、誰もが「あァ、あの顔CMでよく見るね」と言うくらいの存在になった。

★あともう一人スタイルのいい子で日本石油のキャンペンガールかなんかになったが、その後鳴かず飛ばずというようにいつの間にか消えてしまった。

★それほど、芝居もうまくなく、根性があるとも思えず、地味で、そんなに可愛いくもない子が、一番長続きをして生き残ったのだから、芸能のこの社会は分からない。

★言っておくが、それこそ、私が教えていた6人はどれも粒ぞろいのプロポーションとかわいらしい子たちだった。あの頃AKBのようなアイドルグループがあれば、どの子もキラキラしていて、きっとそれなりにファンをつかんだであろう。

★全てとは言わないが、この世界はどれだけ運を背負っているかに尽きると私がしみじみ思ったのは、この経験に寄るところが大きい。

★タレントだけではなく、ラジオやテレビの脚本家も実力だけではなく、そういう運や出会い方によって仕事の仕方が変わってくるのだが、そのことも稿を改めたい。

★続きは又次回へ。

★今日は昨日の続きで、腹が芳しくなく、1日休息に近い状態を過ごした。

★本日はこれまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 伝えたいこと
genre : 日記

奥山さんの落語

蛍舞台写真B

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台写真です。 撮影 向 操

★さて、本日は夕方、家人に付き合いダイエーへ買い物に行き、その後別れて1人四谷へ。

★四谷のコタンで立川流の落語の会へ行きました。

★立川 しららさんが秋に真打になるという事で、立川こしら師匠とゴローさんの電気紙芝居、そして立川侊しん師匠の落語を先にやり、立川しららさんの落語「包丁」とりとなりました。

★月一回の催しですが、とても楽しい一時であります。

★いつものメンバーが月一回顔を寄せ合って、落語を聞くという文字通りの落語会であります。

★付き合ったダイエーで食べたラーメンの所為かあるいは、その時食したアイスクリーム入りのクレープの所為か、深夜家に帰ったら久しぶりに激しい下痢をしました。

★薬を飲んで、脱水しないように温かい麦茶を飲んで、お腹を暖かくして早寝(といっても3時を20分も過ぎているのですが)します。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 今日のつぶやき。
genre : 日記

私と演劇39

蛍舞台写真C

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台写真です。 撮影 向 操

★私と演劇 「39 小劇団のチャレンジ」

★さて、此の正月芝居で分かったことは、当たり前のことながら人のやっていないことをやれ(当時正月の2日から7日という期間で芝居をやるということが、小劇場ではなかった)という事と、やはり芝居は口コミによってお客が増えるという事でした。

★ただ1点、高円寺の明石スタジオで、盆をまわすという仕掛けを望み、それを本にも書いたもので、装置の担当のBさんともめてしまいました。

★彼は言いました、「帝劇や日生劇場ならともかく、明石スタジオで盆を回せ?冗談じゃないよ」私は言い返しました。「帝劇や日生劇場で盆を回すのは当たり前だよ、盆がしつらえてあるんだから。明石スタジオで盆を造って回すから面白いんじやないか」と。

★出来たことは出来たのですが、以来Bさんとは仕事をしなくなりました。例え予算はギリギリでも、ギリギリのところで冒険をし、常識を打ち破らない限り芝居をやる意味はないのです。

★三百人劇場でやった「泣け昭和、魂の涙きらめかせて」の芝居の時でした。

★これは養老院を抜け出した老婆が、深夜、比叡山にのぼり、山頂近くのトイレの中から現れて始まるという芝居で。

★芝居の一番最後は、一切の装置が一瞬にして無くなり、ホリゾントの前に養老院のテレビが1台だけ置かれているという脚本でした。

★その装置を手掛けたTさんは、ありきたりの五個のトイレを横に並べた、まあごく普通のプランを作って図面を書いて持ってきました。

★そのプランを見て、作・演出の私が「ふーん。いいよこれでいく?」と言ったのです。ところがTさんはその私の反応が気に入らなかったと言って、「よし、台本通りに作りましょう。そのかわり役者はちょっとやりにくいですよ。」と言い残し、次のプランを持ってきたのです。

★そのプランとは直径3センチ程もある鋼のワイヤーで、平台を全部簀子から釣り上げて作るというプランでした。

★芝居の最後のシーン、三百人劇場の梁にワイで釣り上げられた舞台は、見事に何もない空間を作り出し、そこにテレビが1台ポツンと置かれ、その前で、養老院に戻された老婆5人が中々終わらない昭和を嘆いて「長いねぇ―昭和」と言うのでした。

★確かに安定の無いワイヤーで釣られた平台の上で、そのほとんどを演じる役者も大変でしたが、Tさんのお蔭て、1978年当時としては画期的な舞台を創る事が出来たのでした。

★時流れ、平成になってから劇団ギルドで「恐竜はやがて鳥になった」という芝居で、(暗転が終わり20台のノートパソコンが一斉に開きその光が溢れる)という芝居を書いたのですが、予算もなく、パソコンも用意できず、たった四台のノートパソコンが光を放つというラストになってしまい、演出としては本当に悔しい思いをしたのを覚えています。

★これは駄目な例ですが、小劇団は常に戦いであり、真の演出よりは劇団や客演の間のもめごとや、役者のモチベーションを何とか一致させて高めていくという演出以外の事が多すぎる演出ごとの中で、芝居を造っていかねばなりません。

★蜷川さんのように、「ラスト、そこに百台のブラウン管が出現するんだよ」と言いさえすればそれが舞台に実現するというわけにはいかないのです。

★だからこそ、我々小劇団は金も力もない中で、ギリギリの工夫をします。それなのに「あのスライドを使うというのはいいけれど、くどすぎるな」等とたまにおっしゃる事情の分からないお客さんもいらっしゃるのです。

★あくなき、挑戦とたぐいまれな冒険心。そしてしなやかなで柔軟なこころがなければ、小劇団は何年も続けたりは出来ません。

★この続きは次回。

★本日は四月なのに雪が舞う。四月だから関東地方は雪が舞いやすいのか?午後、月に一度の日脚連の「脚本家ニュース」編集の日。

★夜は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」に出演してくれた臼井さんの出る芝居を池袋に観に行きました。

★芝居についてはここでは触れません。臼井さんは若いのに的確な芝居をしていて、素晴らしい演技でした。

★本日これまで。おやすみベィビー!また明日。

theme : 伝えたいこと
genre : 日記

私と演劇38

蛍舞台写真A

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の海の舞台写真です。 撮影 向 操

★私と演劇 「38 季節の風がスカートに」

★さて、老婆役の降板によって、稽古期間が足りないし、役者も確保できなかったため、たまたま演出の任がなく、開いていた小生が急遽老婆の役をやることになりました。

★早速セリフ覚えの悪い小生、極端にセリフをカットして少なくして、そのまま舞台に居るような風に脚本を直したのです。
従って、老婆の存在がかえって際立ち、その占い師が奇妙な味を舞台で゛発揮するようになりました。

★そうなのです。役者はセリフの多い少ないではなく、そこにただ存在していることが存在感を増し、インプレッションも強く観客に与えるのです。これは逆説でもなんでもなく、多くの芝居はセリフに頼って、役者を舞台に乗せているからです。

★老婆役はまた、当時小生41歳だったので、同等の年齢に引き下げ老婆ならぬおばさんの占い師にしたのです。

★舞台稽古近く、スカートとブラウスを着て稽古をしてみました。スカートの間に風が忍び込んでくるという事まではスカートをはいてみる前は当たり前のことながらわからなかったのです。

★「あー、なるほど女の人は季節ごとにスカートの中に風を感じて動いているのだな」ということは小生にとっては大発見でした。これこそ体験してみなければ想像力だけではわからないことです。

★春になって股引が取れて、なんとなくズボンの中がスーッと春めいてくるぐらいしか、男の感覚にはないのですから。

★この芝居は鞍馬天狗を追った近藤勇がでてきたり、前年にほんとうに劇場をなくしたSKDをパロって、さすらいのラインダンスをする踊り子を出したり、最後の最後行き詰ると、洪水で何もかもが流れてしまうというような、とんでもない結末で終わったりとか、とにかく支離滅裂な芝居でしたが受けました。

★その頃正月は小劇場の芝居がないこともあって、それほど宣伝もしなかったのに、口コミでお客は沢山やってきて、芝居の評判も上々でした。

★知り合いの衣裳さんや小道具さんから安く借りてきて、そして鬘合わせまでして、実に贅沢な芝居でしたが、勧善懲悪だけれど別にテーマとかはなく、中身はめちゃくちゃな芝居でした。

★芝居の構成はハンフリーボガードとイングリツトバーグマンの映画「カサブランカ」から設定を借りて、羽田空港がいきなり、「川止めだー。おーい川止めだぞー」という処から時代劇に入るという芝居でした。今思うにあの路線で行っていれば三谷幸喜のしばいなどはとっくにしのぐ、はちゃめちやな喜劇作家になれたかもしれません。

★それ以来芝居においては全くの喜劇は1本も書いていないのです。

★とりあえずこうして、この年の正月は開けました。演出をやらないとこんなにも芝居は楽しいのかとも改めて思いました。

★もう一つ大変な事が起こりました。出演者の中に1人完全に男しか愛せない男がいまして、私が女装した事で、あちら側の人間であると誤解され、何回も泊まりに来ないかと誘われ、断りつづけました。

★第一小生神経質でたとえ女の家でも自分の家以外の処では眠りれないし、それよりなにより、そういった趣味は一切なかったからです。

★だがその彼は小生を誤解し続け、後年会って太ってしまった小生をみて「あー、そんなに太っちゃったら、もう男は口説けないね」というのです。どんなに否定しても、この世の中で、高谷はホモだと信じて疑わない男が1人いるのです。何とも奇妙な話です。

★この続きはまた次回。

★アビは結局甲状腺亢進症という年寄りの猫にかかりやすい病気という事がわかりました。体重も1.5キロを割るくらいなのと、年も年なので、手術というわけにはいかず、薬を飲みながら様子を見るという事になりました。

★でも、獣医の先生が実にしっかり論理的に説明してくれて、信頼のおける女の先生なので、ほっとします。医者はまず信頼できるかどうかという事は本当に大切と思いました。

★さて、本日は午後、劇団員の長谷川が来て、2時間シナリオや芸能の発祥をふくめた講義をしました。その後北村と今度から制作を手伝ってくれるカメラマンの向さんという御嬢さんも事務所兼我が家にやってきて、次の公演について、色々作戦会議を行いました。

★本日これまで。おやすみベイビー!また明日。ヤンキースの田中将大負けたよ。残念!

theme : 伝えたいこと
genre : 日記

私と演劇37

蛍舞台5

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台写真です。撮影 向 操

★私と演劇 「37 正月興行」

★さて、1983年の暮れでした。同年の3月1日~3月6日に下北沢の鈴なりで「命短し恋せよ乙女」を上演してから、八騎人は完全に休眠状態に入っていました。

★高円寺の明石スタジオで、「発見の会」の牧口 元美さんが、正月に芝居をやらないかと提案したのです。
明石スタジオは由緒ある劇場で。

★昔大正時代、島村 抱月の主宰していた芸術座にいた松井 須磨子と対照的に 故事の須磨、明石から島村抱月さんが名づけた明石 澄子という女優さんがいらっしゃいました。

★その明石さんがご自分のお名前を冠して、高円寺にお造りになった劇場なのです。

★そのお孫さんの故宮本さんと家人が知り合いで、明石スタジオとは浅からぬ因縁もあったのです。

★その劇場で当時には珍しく(商業演劇以外で当時正月に芝居をやるという小劇団はありませんでした)正月の2日~7日まで芝居をやろうという事になりました。

★牧口さんが時代劇をやろうということになり、口建てで喋ったことを小生が本にしてやろうという試みです。典型的な峠の茶屋を舞台に立ち退きを迫る悪い地元のやくざがやってきて、そこに新撰組の近藤勇やや水戸黄門がやってきたりして、大騒動になるという正月向けの芝居です。

★「夢、ありてなければ」という題で八騎人とは関係なく、私は脚本だけを担当しました。演出は牧口さんです。

★ところが出演が決定していた占いのおばあさんが役を下りてしまい、日にちがなく、仕方なく私が女装してその老婆の役をやることになってしまったのです。

★この続きは次回。

★アビは昨日調子が悪く一晩中鳴き続けて、家人も小生もいささか睡眠不足の状態になってしまいました。

★相変わらず水が自力では飲めず、餌も食べられないので、注射器で水を与え、チューブの餌を口に一生懸命入れ込むという状態でした。

★夜、再び動物病院へ自転車で連れて行きました。再び血液検査をして、ブドウ糖の注射をして、明日の甲状腺の状態の検査結果を見て、何らかの処置をするという事になりました。

★アビは今日は覚悟したのか、慣れたのか、比較的おとなしく病院で治療を受けました。帰ってきて、病院で購入して来た餌を少し食べて、鯵をすこし食べたようです。

★今日は鳴かないで寝かしてくれるかな・・・・

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。


theme : 伝えたいこと
genre : 日記

アビの不調

蛍舞台4

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台です。 撮影 向 操

★さて、本日一進一退していたアビの具合が極端に悪くなり、水も自力では飲めず、注射器で少しずつ飲ませてやっても吐くような状態になってしまったため、動物病院へ自転車で連れて行きました。

★今まで、通っていた獣医さんがあまりに頼りないため、駅の向こう側の少し遠くの病院に猫好きの知人の紹介で連れて行くことになりました。

★家人が自転車に動物用の小さなキャリーバックを積んで、後からこれも自転車で、小生が後をフオローしていくという状態で、新青梅街道沿いの病院に連れて行きました。

★検査の為血を抜いた為に、注射器を刺すと怯えたのか、怒ったのか「うー」と唸っていましたが、比較的おとなしく診察を受けました。30分程結果を待って、もしかして甲状腺の機能が壊れてきているのではないかという事と、喉に大きなこぶがある事がわかりました。

★1月の末に診断に行った病院では、結局原因がわからず、そんな大きなこぶが喉に有るという事さえ分からず、あれはなんだったのかと思う始末です。

★明日甲状腺の結果が出るので、明日また連れて行くことになります。

★保険がきかないので、動物の病気は恐ろしくお金がかかりますが、背に腹は代えられないのと、何分アビは家族の一員のような気持ちですので、なんとかしてやろうと、こっちも必死です。

★血中の塩素の濃度が上がっているとの事で、普通の点滴も出来ないので、ブドウ糖の注射を打ってもらい、帰ってきました。

★帰ってきて、少し落ち着いて、水を注射器で飲ませて、練餌をすりこむようにして、少し食べさせました。

★比較的おとなしくしていますが、心配な事です。何せ15年目に向かう老猫なのと、動物は物言えないだけに余計何処が悪いのかわからず哀れでもあります。

★そんなことで、本日これまで。

★お休みベイビー!また明日。

theme : つぶやき
genre : 日記

私と演劇36

蛍舞台3

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台写真です。 撮影 向 操 

★私と演劇 「36 ラジオドラマ」

★さて、此の頃NHKのラジオドラマはオリジナルを中心にしたラジオ劇場(後のFMシアター)と、脚色物の青少年向けのアドヘンチャーロード、そして出演者を絞った15分枠の連続物の二人の部屋更に森繁久彌・加藤道子による日曜名作座等がありました。

★二人の部屋では、久々のシナハンで(シナリオハンティングと言ってシナリオを書く前に目的地にロケに行くことです。)京都の丹後~天橋立へ行きました。

★そして出来上がったのが「雪の子守唄」で、これは大阪に居る不良少年が、おばあちゃんに連れられて、奥丹後へいき、自然や地元の少女との交流などで、自分を取り戻し成長して行くという話で、全編ビートルズの曲でつないで行きました。

★ビートルズの著作権がまだ緩かった頃で出来た話で、各回3曲ずつぐらいビートルズの曲を流しながらのドラマは多分もう2度とできないでしょう。

★これは、大変ユーモラスな作品で、自分でも好きな作品です。

★考えてみれば、取材をして作品にするなど恵、まれた時代にラジオドラマの仕事がやれて、実に幸せでした。

★ラジオ劇場では「妻の父」という自伝的な作品を書かせてもらいました。

★これは、若い頃、家人が何の目的も夢もない小生を見るに見かねて家を出てきてしまい、7年程実家に帰らなかった(いや帰れなかった)時の事情や、亡くなった彼女の父上に対するいわば贖罪のドラマで、不思議なもので、これを書き上げた後、勝手なもので、荷なっていた荷が少し軽くなったような気がしたものです。

★これは文学座の吉野佳子さんが見事に演じてくださり、父の役は垂水 吾朗さんがこれも見事な父を演じてくれました。

★デビュー作の「風に舞う木の葉のように」の中には比較的私小説的な要素もありましたが、実質この作品が、自分に沿ったフィクションの最初のような気がします。

★それからこれも「6色クレヨンの島」という一盛和世さん原作の本を脚色しました。タヒチを舞台にした明るい作品で、金沢 碧さんがコミカルに演じたのが印象に残っています。

★こうした脚色を通して、ドラマの山の作り方や、次への聞く人への期待の持たせ方、リズムとテンポの付け方を小生は随分学んだと思います。

★本日これまで。おやすみベイビー!また明日。

theme : 伝えたいこと・残しておきたいこと
genre : 日記

私と演劇35

蛍舞台2

★「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台写真です。 撮影 向 操

★さて、ブログを1日飛ばしてしまいましたが、なんとか風邪も乗り切ったようです。多少気力が出てきました。

★本日は劇団のミーティング。事務所の下の集会所で2時間ほど月の公演についてやりました。

★私と演劇 「35 八騎人の自然溶解迄」

★さて、未だ下北沢が、演劇の街として機能していなかった頃鈴なりで四劇団合同公演という催しをやりました。鳥獣戯画他の3劇団と競演という感じで公演をやりました。

★それが「命短し恋せよ乙女」という大正時代を背景とした松井須磨子・伊藤野枝・大杉 栄・辻 潤等が出てくる芝居で、これは後にギルドでも2回再演することになる芝居です。

★この芝居は松井須磨子と伊藤野枝がパラレルになって、芝居を編んでいくような構造で、静岡での旅公演もやった作品です。

★記憶をたどるとこの芝居の前に鈴なりでは「ふりむくな次郎長」という芝居を先にやったような気がします。
こちらは、次郎長の活躍と、その浪曲の物語を生み出した広沢 虎造を平行して描く作品で、明治という激しく変わっていく時勢の中で次第に己を見失う、次郎長の姿も描いていました。この作品もギルドで再演をやりました。

★この「ふりむくな次郎長」は後に本多劇場のオーナーとなって、下北沢を演劇の街にしていく本多さんも客席で見ていただきました。多分そのことがつながって、4劇団競演の「命短し、恋せよ乙女」になっていったのだと思います。

★そして、この公演を境にして、八騎人はエネルギーを失うのと、小生がラジオドラマやテレビの「中学生日記」を書くことに忙しくなって、特に解散宣言もなく、長い休眠・溶解の時期に入っていったような気がします。

★ただ、今思うと、それ以外にも代官山シアターで「夜よ黄金海道の」とか下北沢の駅前劇場での公演もあったので、今一つはっきりしません。八騎人の上演年表を探し出してからそのあたりを改めて載せます。

★ともかく、「命短し、恋せよ乙女」の公演から八騎人は休眠・溶解していったのは間違いないと思います。

★と同時に小生個人としては忙しいマスメディアとの日々が続いて行くのですが、そのあたりの事は又次回で。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 伝えたいこと・残しておきたいこと
genre : 日記

まだ不調

蛍舞台1

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の舞台です。撮影者 向 操

★本日も熱っぽく躯絶不調。歩数計によれば58歩。携帯を持って一々トイレや洗面所に行かないので、58歩になるわけだけれど、実際はもう少し200歩ぐらいは部屋の中を歩いている。

★昨年具合悪くなった左手のバネ指が3日程前からぶり返している。

★風邪も年を取るとほんのちょっとの熱で億劫になって、本当に無気力になる。そしてその無気力に逆らおうとするエネルギーがなくなり、ぼーとして過ごしてしまう。

★年を取ると一日一時が大切なのが分かっているのに、ボーとして、何もせずに貴重な1日をすごしてしまう。

★正に病は気からである。

★あと、1,2日したらもう少しまともな事も書けそうな気がするが、今は駄目だ。アクセスしてくれた方、御免なさい。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : ひとりごと
genre : 日記

不調

蛍稽古5

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景。

★やっぱり風邪なのか、予定を変更して、コンビニに買い物に出た他は一日家にいる。

★家人も咳をして寝ている。アビも最近食欲なく、水を飲ませないと自分では飲めない様子。

★2人と1匹共に不調。

★したがって本日これまで。お休みベィビー!また明日。

theme : つぶやき
genre : 日記

プロフィール

G.C(グランド・キャノニオン)

Author:G.C(グランド・キャノニオン)
G.Cことグランド・キャニオン・ビリーブ・ミーこと高貴な谷、つまり 高谷信之のこれはブログです。

G.C(ジードットシー)はラジオドラマ80本書き、映画、テレビのシナリオを手掛ける。
また劇団ギルドの代表でもあり、劇団の運営、限りない創造に賭けており、また放送作家協会の理事でもある。
他にシナリオの書き方講師等もしている。

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