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打ち合わせ~芝居見物

蛍稽古4

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★さて、本日は昼間の気温は20度を越して、一気に桜が満開になったようで、まるで初夏の陽気。

★そんな中、午後、新宿で仕事の打ち合わせをして、夕方池袋の 「あうるすぽっと」へ芝居を観に行く。

★森組の芝居で、森 治美作安井 ひろみ演出の「マクベス上演」―夢のつづきーという芝居。

★検閲とか弾圧が次第に厳しくなってきた昭和8年頃、新劇の劇団が、マクベスを上演しようとするのだが、隠し持ったマルクスの本を特高に目をつけられたり、演出家が逮捕されたりの苦難が劇団に襲い掛かる。

★正に特定秘密保護法案等の成立もあって、不気味な現在の状況をぴったりと重ねたような秀作であった。

★演出家の役の浜田 晃さん(早稲田自由舞台の2期程先輩なのだけれど)の重厚で苦悩に満ちた役も素晴らしく、その他女優さんも存在感のある演技で、いい芝居だった。

★惜しむらくは入れ子になっているマクベスの劇中劇をもう少し、後10分程削ると完璧なのだが、そこはそれ色々の事情があるのであろう。

★明日31日の14時が千穐楽なので、興味のある方は行かれるといいかと思います。

★陽気の変動の所為か、喉の調子が良くなく、家人が風邪を引いているので、もしかしたらうつったのかもしれない。

★早めに風邪薬を飲んで寝ようと思うが、もうすでに2時半に近い。多分寝床に入るのは3時過ぎるだろう。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。
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theme : 日々のつれづれ
genre : 日記

私と演劇34

蛍稽古3

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★私と演劇 「34 八騎人(ハッキジン)再生」

★さて、崩壊寸前の時助けてくれたのが「発見の会」にいた牧口 元美さんでした。「発見の会」はいわばアングラの走りのような劇団だった。

★まだ牧口さんと会うずっと前、信濃町の千日谷会館でやった今野 勉作・瓜生良介演出の「ゴキブリの殺し方」は数ある舞台の中でも忘れられない衝撃の舞台だった。

★そこの中心役者である牧口さんが「せっかく頑張ってやってきた八騎人を潰すのはもったいない」と言って、発見の会の後輩の役者を4人程引っ張って来てくれて、公演をやることになった。

★最初は中野のテレプシコールという小さな小屋で、今まで上演した作品の集大成のような小生の作品のコラージュのような作品を再構築して、打った。そして、初めてこの頃年間計画を立てて、明石スタジオ・下北沢のすずなりでの公演を決めたのである。

★とにかく劇団は公演を打たなければならない、という考え方はこの時の牧口さんからの影響も大きかったが、以後劇団をやっていくうえでの大きな指針になっていった。

★鈴なりはまだ本多劇場の出来る前で、後に下北沢を演劇の町になる前で、本多さんが熱くその構想を語り、本多劇場等はその構想を実現しつつある時期でもあった。

★はっきりとした年代の整理がついていないので、後で正確な年代を入れ替えるが、その年中野で「ディトリッパー」という芝居を打ち、明石スタジオでは「吾が魂の八犬伝」を打ち、翌年の春鈴なりで、4劇団饗宴という形の中で「命短し恋せよ乙女」を打った。

★「吾が魂の八犬伝」は先の戦時中、ドサ周りの一座が起死回生をかけて「八犬伝」を演目として、日本列島を流れ、しまいには詐欺師に騙され満州の黒竜江の近くまでさすらい。日中戦争と共に解体して行くという作品だった。

★この芝居の中には去っていく劇団員を描いたりして、その頃の劇団との思いなども芝居に込められている。

★この芝居は、昨年も劇団ギルドで再演したが、劇中劇を演じつつ、ドサ一座の芝居が進行していくというスタイルで、後にこういう形式の芝居を何作か書くようになる。

★「命短し恋せよ乙女」は宮本研の「美しきものの伝説」とほぼ同じ登場人物で、その時代を描きながら、俺ならこう書くと挑戦した作品だ。

★こうして、牧口 元美さん率いる発見の会の力添えがあり、八騎人は完全に形も変えて復活を果たしたのである。

★思えば、この時期が小生の演劇作品にとっても大きなターニングポイントではなかったかと思う。

★続きは次回。本日最高気温が20度に達し、途中雨は降ったが、やっと春めいてきて、桜が一気に咲いてきた。

★桜は気温にそうとう影響されるという事を改めて知った。昨日から今日の咲き方の急激さは近年としては珍しい。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 伝えたいこと・残しておきたいこと
genre : 日記

私と演劇33

蛍稽古2

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★私と演劇 「33 小劇場から大劇場へそして危機」

★さて、300人とかの大ホール(本来は小ホールなのかもしれないけれど、我々にとっては大ホールなのです)で公演を打ち赤字を出しては借金返しに時間がかかり、2年程公演が打てない日々が続きました。

★そして、大久保の小さなアトリエや、新宿の厚生年金ホールの近くにあった小さな小屋で公演を打つ事が続きました。
小屋が小さい所為なのか、それとも筆力が落ちていたのか、決まって小劇場でやる芝居は脚本自体に力とはっきりしたテーマがなく、さりとて、コメディーは下手と来ているので、何とも八方ふさがりの時期でした。

★ラジオは脚色が多く、アメリカのサスペンスを原作とした「摩天楼の身代金」森本 レオさんや氾 文雀さんの出演のアドベンチャーロード枠15分10回とか今西祐行原作の「肥後の石工」等の作品を書きました。

★そしてこの頃1975年頃から密かに取材をし、温めていた義経伝説の話を1980年に八騎人として上演することとなります。

★その作品が今年1月29日~2月1日迄、座・高円寺1で上演した「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の初演を舞台で、1980年7月16~20日の5日間当時の労音会館で行なったのでした。

★作品としては十分な取材と充分に書き直したので、いい舞台になりました。当時佐藤 信や唐十郎の音響を手掛けてくれていた優秀な音響の市来 邦比古さんも本を読んで、スタッフとして参加してくれました。

★舞台も多くの優秀な客演を集め、特に「発見の会」の牧口元美さんとの出会いはこの作品でした。後に八騎人では主演女優となる麻倉 淳子もこの公演から参加したのです。

★舞台としては成功したのですが、悲しいかな莫大な赤字を背負うことになりました。当時出で20万円ということですから、大変な金額です。今では到底無理ですが、ただ、その頃は印刷屋とかスタッフもなんとか借金を待ってくれたという風潮がありました。

★その後2年間、多分1982年頃までは借金返しだけで、芝居は出来なかったと思います。

★貧すれば鈍すで、借金を抱えると、劇団員の様々な本性も見えてきます。その頃は東中野の方に中野勤演というアマチュア劇団と協同で地下室の稽古場を借りていました。互いに折半して稽古場代を払っていました。

★公演日程は大体調整して、われわれは昼間稽古で、夜アルバイト。中野勤演は夜稽古という仕訳でした。

★公演をやるやらないにかかわらず、7,8人で稽古場代と借金を分担して払っていたのですが、皆苦しいのに、お金にルーズで払わないやつとか、遅れて例えば小生が立て替える奴とかが、出てきます。

★こうしたことが、不仲、不具合を生み出し、次第に人数も少なくなってきました。

★そして、この頃、ギャラの入る児童劇の劇団の仕事をやりだしたメンバーが、皆を誘い、ギャラが出るならと、なだれ込むようにそっちに流れて行ったのでした。ほとんど八騎人はつぶれる寸前になっていました。

★続きはまた次回。

★本日はこれまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 伝えたいこと
genre : 日記

スカイツリーで

隅田川の桜

★写真は隅田川の桜です。

★さて、昨日の続きです。26日深川を歩き回って、夕刻門前仲町から押上に行きました。

★1週間前ぐらいから、誕生日にスカイツリーに登ってみようと漠然とは思っていたのですが、そこはそれ、ブラッドタイプBの小生としてはほとんど思いつきに近い行動でした。

★スカイツリーはネットで予約できるとは思いも至らず、いきなり行ったら、上に登るチケットは何と、40分以上つづら折りのテープの間で、のろのろと歩きながら待たされました。

★そんなに待たせるなら、せめて30分刻みで、整理券を発行するなどの方法を取れないのかと思いました。30分あれば、買い物も出来たり、有効に時間を使って、チケットを購入できるのに、こうした小劇場でもやっているような工夫がないのにはびっくりしました。

★そして、チケット売り場には2000円といくらと書いてありましたが、これは345メートルまでで、その上に行くにはそこから又1000円程かかるのですが、下のチケット売り場にはそんなことは一切書いてないのです。

★普通、一番上に行くためには3000いくらかかりますと、ちゃんと下のチケット売り場に表示すべきでしょう。上まで行ってから、あと1000円無いと上に行けないよは、昔の見世物小屋の感覚でちょっと詐欺師に会ってしまったような感じがしました。

★そして上の345Mへ行くと、ガラス際は人が溢れていて、中々隙間も出来ず、夜景も撮れないほどの混雑ぶり、トイレは女子トイレと男子トイレが円形の逆側にあり、男トイレの便器は人が溢れているのに何と2つしかないという有様。

★帰りも2つ階をせまいエスカレーターで下りないと下りのエレベーターはなく、ここも行列で混んでいて、これでは車椅子の方や体の不自由な方はほとんどやってこれないというひどい有様でした。

★まあ、テレビの電波塔をそれだけではもったいないので、金を取って高い処からの遠景や夜景を見せてやろうという感覚なのかもしれませんが、ちょっとあまりにもえげつない商売の様で、夜景の素晴らしさが半減するような気になりました。

★ちなみに誕生日だという事で、丸いステッカーをいただきましたので、あまり文句を言っては罰が当たるのかもしれませんが。

★ともかく、足腰のしゃんとしている間でなければスカイツリーは無理だという事です。深川を含めて、小生の万歩計は14000歩を超えていました。

★これがスカイツリーの顛末でした。

スカイツリーの夜景


★さて、本日は異業種428クラブの1月ぶりの集まりで渋谷へ。最初の講座で、秘書検定試験2級の問題の抜粋を30分かけて、やらされましたが、約7割の出来。

★ひっかけ的な設問にひっかかったのと、得意なはずの敬語を間違ったのが悔しい限りでした。

★考えてみれば、自動車の免許など取ったことがないので、ペーパーテストに向かい合ったのは、52年ぶりくらいで、ちよっとびっくりした次第です。

★本日これまで。おやすみベィビー!また明日。

theme : ひとりごとのようなもの
genre : 日記

72回目の

スカイツリーからの夜景

★写真はスカイツリーからの夜景です。

★さて、本日は小生72回目の誕生日でした。

★FBを初めとしてメールやライン等沢山の方からお祝いのメッセージをいただき、嬉しいのと恥ずかしいのと、72回は流石に目出度くないなァー等といろんな感慨を持ちました。

★たまたま家人がボランティアの仕事も休みだったので、一緒に彼女が10年ほど前に働いていた深川のCM会社の倉庫の有った界隈を徘徊しようという事になり、昼過ぎに出かけました。

★最初に深川不動尊にお参りし、横にある富岡八幡宮にも行きました。

★2か所でおみくじをひいたら、いずれも第18番で(ちなみに18番は生まれた年でもあり、小生の大好きな数字です。)
最初が吉、富岡八幡宮が大吉で、忽ち気をよくしました。

深川不動尊


★私も数回行った深川でしたが、すっかりきれいになり様子が変わっていて、きれいになった分管理されて、河川敷も人が入れないようになっていたり、15年前家人にアビが拾われた、富士山の浅間神社と関係の有る小さな神社もきれいになり、野良猫はおろか、あのころ暮らしていたホームレスの人もいなくなりました。

★かろうじて、もとCM会社の倉庫の有った2件隣の寒天工場の事務所の扉を、おそるおそる家人が叩くと、中から当時居た方が出てきて、思い出話に花が咲きほっとしました。その方ももう65歳とかで、お元気でしたが、あたりの町も人間模様もすっかり様変わりしたようでした。

★その寒天屋を辞して、永代橋の途中まで行き小生の書いた「深夜の市長」や「天主堂」ラジオドラマの舞台となった深川を歩き、ラーメン屋でラーメンを食べて、スカイツリーへ行くことにしました。

★写真はアビの拾われたというよりは出生した神社です。

アビの生地の神社

★さて、これからがひたすら辛抱を強いられた展開になるのですが、本日は語り切れず、明日に続きを残します。

★ともかく、来たるべき73年目の誕生日へ向けて、芝居をし続けていきます。

★ここで発表します。2015年10月29日木曜日~11月1日日曜日まで。Taccs1179で、新作 ’60~18「60年君は18歳だった」を上演することに決定しました。

★いずれHPで詳細をお知らせします。

★というわけで当面それへ向けて、老骨に鞭打って頑張ります。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 日記
genre : 日記

私と演劇32

蛍稽古1

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★私と演劇 「32 赤字を背負って」

★さて、三百人劇場での「泣け昭和、魂の涙きらめかせて」は好評のうちに終ったものの、大変な赤字になりました。

★この赤字を劇団員で頭割りして返却していくのに2年程かかりました。

★その間八騎人は公演休止状態を取らざるを得ませんでした。

★私はというと、ラジオドラマの主に脚色の仕事が結構入って来るようになりました。

★さねとう あきらさんの原作の「石器人戦争」はたしか誰かの代打という感じで、1週間で書き上げた記憶があります。当時は万年筆(後に2Bの鉛筆)で原稿用紙に書いていたためにその仕事が終わった途端右手が腱鞘炎になり、手首がぷっくりと膨れてひどいことになりました。

★しかし、これは確か読売児童文学賞をさねとうさんが受賞された作品の脚色で、素晴らしい作品でした。後にブレイクする内藤 剛さんが出演されていました。

★これは絶対児童劇にしたら古典となるようなすぐれた作品だと今でも思っています。腱鞘炎は私にとって勲章のようなものでした。

★その他、片岡義男さんの原作の短編集のオムニバスで「美人物語」を脚色しました。氾 文雀さん岡本富士太さんが出演したしゃれた都会風ドラマで、八騎人の女優麻倉淳子もその中の1話に出演していました。

★氾 文雀さんは後に「摩天楼の身代金」という作品にも森本レオさんと出演し、更に後の映画の仕事でもご一緒するのですが、素晴らしい女優さんでした。

★本当に惜しい方を早く亡くしたと思います。亡くなった後、映画や舞台やラジオでも素晴らしい演技をしていたのに、サインはVに出ていた女優というような書かれ方をしていて、マスコミの知名度による経歴の書き方は無念だったと思います。

★サインはVから始まったとしても、亡くなる頃には日本でも有数の女優になっていました。そのことをちゃんと評価してほしかったと思います。

★岡本富士太さんとは後にテレビの「中学生日記」でお世話になります。

★ラジオは二人の部屋とか青春アドベンチャー等が始まり、比較的連続で5回~10回場合によっては15回の脚色の仕事をやるようになりました。

★オリジナルと脚色は勿論色々と書き方や、苦労のしどころで違うのですが、どちらも好きでした。特に脚色を何本もやることによって、シナリオを書くという事での大変な勉強になったのです。

★ラジオドラマは芝居に大変近く、自分たちの劇団で書く芝居はお山の大将なので、ラジオは別の勉強になります。

★勿論勉強をしていて、脚本料をもらったのかと言われると何にも云えませんが、ディレクターとの直しを通して、ドラマの書き方がどんどん明確になり、何を書かねばいけないか。何を書いてはいけないのかという事がどんどん明確になってきたような気がしました。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 伝えたいこと・残しておきたいこと
genre : 日記

私と演劇31

「蛍稽古E

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★私と演劇 「31 絶体絶命のピンチ」

★ラジオドラマは「灰とダイアモンド」を書き上げた頃だと思います。

★事情で中止になった演劇集団円からの仕切り直しの要請がありました。「セピア色した雨祭り」という舞台を書き上げ、当時新橋にあった円のアトリエで作・演出をすることになりました。

★主演は故 仲谷 昇さんで、三谷昇さんが日程的に出演は出来ないけれど、装置を担当してくださることになりました。
もともと三谷さんは文学座の演出部からスタートした方で、絵とかセットの考案も得意の分野でした。

★後に三谷さんとは何回か小生のラジオドラマに出演していただいて、これまた本当に深く素晴らしい演技をする方です。

★舞台稽古の日に丁度入院されていた芥川 比呂志さんが退院され、アトリエに観にいらっしゃいました。仲谷さんはもう芥川さんがいらっしゃっているという事だけで、ものすごく緊張されて、最終的な私の舞台稽古でのダメ出しはもううわの空の様でした。

★勿論私も緊張はしましたが、やはり演出は明日本番の舞台の事が気になり、芥川さんがお見えになっていることはそれほど緊張の種にはならなかったのです。

★ただ、後日電話で、劇団員に「中々面白い芝じゃないか、ああいう試みをどんどんやりなさい」とおっしゃって下さったという事を聞き、この言葉がどれほどその後の芝居をやっていく上で力になった事でしょうか。

★そういえば、芝居のできない頃、24、5歳くらいでしたか、日刊石油ニュースという業界紙に勤めていた時があり、毎日通産省をまわり、その頃はセキュリティーの全くない頃だったので、誰でも通産省の石油関連の課長の席などに入れたものです。

★そういう処へ飛び込みで行くのですが、中々新しいニュースが取れず苦労していたのですが、毎日夕方、地下室の社へその日取材した原稿をもちより、まとめて、校閲されるのでした。

★それを担当している人が、元朝日新聞の仙台支局長で、太宰治の従弟という人でした。その方が、何度となく、私の文章をほめてくれて「君は文章がうまいねー」と言ってくれました。

★自慢のようでいやなのですが、芥川 龍之介の息子さんである芥川 比呂志さんに芝居を褒められ、太宰治さんの従弟に文章をほめていただいたことは、本当にそれ以後の支えになりました。

★それがと゛うしたと言われれば、それまでですが、嘘のような本当の話です。

★ラジオドラマと円の芝居と次に八騎人でやろうという芝居が、ずれながらも見事に重なってきました。

★しかも仮契約していた市ヶ谷の小屋が使えなくなって、弱り果て、日程を詰めて、駒込の三百人劇場で芝居をやることに変更を余儀なくされたのです。

★300人劇場は思いの他言葉通り客席の多い、300人入る劇場で使用料も高く、途方に暮れました。

★そんな色々な事が重なり、ある時左背中の辺りが冷たい風の塊が、いるような感覚になって来ました。随分ほっほ゜っていたのですが、あまりに痛いので、病院へ行くと、胃潰瘍と十二指腸潰瘍を併発していて、即入院しなければ、駄目だと医者に言われました。

★ここで入院したら、せっかく軌道に乗ったラジオドラマも、大手の劇団円から依頼の芝居も出来ず、みずからの劇団も公演中止になり、なにもかもが、瓦解してしまいます。

★絶体絶命でした。プロとして生きていけるか否かの瀬戸際だったのです。

★私は医者に必死で事情を説明しました。今入院したら何もかも失うと・・・・「死ぬよ」と医者は言いました。
「例え死んでも今は入院できません」と私。

★結局医者が折れて「だったらこれから毎日病院へ通いなさい」と言いました。

★私は毎日通い、毎日太いマジックインキの長いやつ位の太さの注射を、そう40日程通い打ってもらったのです。

★2か月程経った頃別の医者で検査をしてもらったところ、胃潰瘍と十二指腸潰瘍はすっかり治っていて、私は暗い絶望的なトンネルを奇跡的に抜け出すことが出来たのです。

★その後300人劇場で上演した「泣け昭和、魂の涙きらめかせて」という芝居はもう死ぬかと思いつつ書いた作品の為、一種異様な開き直りと、死に対する暗い洞察がリアルで、いまだに元NHKのIにさんには、「あれが最高で、あれを超える作品は書けていない」と言われる始末です。

★ともかく病を乗り切り、やっとのこと私は次のステップへ行くことになりました。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 時の記録
genre : 日記

ラジオドラマ大賞贈賞式

「蛍稽古D

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★さて、本日は午後15時より、市ヶ谷で日本放送作家協会の理事会。1時間半時間が開いて、18時30分より第43回ラジオドラマ大賞の贈賞式がありました。

★今回は大賞がなく、佳作3作という結果になりました。その内佳作第一作の山田文恵さんの「シュガー・ソネット」だけは、後日NHKで制作され放送されるという事です。

★終わって、近くのイタリアンレストラン 「葡萄の木」という処で、お祝いの会をやりました。

★佳作の人やファイナリストの希望に満ちた表情を見ていると、こういうコンクールを通ってラジオドラマを始めたのではないので、殊更何ともうらやましくもあり、また厳しい作家の道をなんとかきわめて行ってほしいと願う次第です。

★もうずいぶん前からの事でありますが、比較的最後まで残ってくる人は女性が多く、男性作家に頑張れと言いたい感覚であります。

★いずれにしろこの季節、何につけても、新しい門出を迎えた人たちといろいろ話したり、話を聞かれたりすることは楽しいことです。

★ラジオに限らず、脚本を書くという事は、その基礎のルールを学ぶという事より、その人の抱えている内側の物(例えて言うとどんな生き方をしているか?してきたか?)が問われるので、シナリオ教育というものは、ある面人間教育になってしまうので、教える方も、教えられる方も厄介な事だと思ってしまいます。

★ただここで言う基礎のルールというもの(ドラマトゥルギーのネソッド)が、先生よってまちまちだったりすることが問題で、それ以上に何をドラマとして良しとするかという事は、各々の先生の有るべき、良いドラマという事の規範乃至はヴィジョンがそれぞれ違い過ぎるので、大変問題だと思うのです。

★スポーツ等と違い、こうした芸術あるいは娯楽作品というものは、それぞれの価値観が違い過ぎて、票が割れたりして、今回のように大賞なし、佳作3篇という事態になる遠因も孕んでいて、厄介なのだと思います。

★まあ、たくさんのシナリオ教室がある事はいいことなのですが、その辺のある種統一感についても考えていかねばならないと思うのです。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 伝えたいこと
genre : 日記

私と演劇30

「蛍稽古C

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★さて、ラジオドラマ2作目に書いた「赤いパラソル」を元にして、芝居を1本書こうという話が進み始めました。

★西田敏行さんのやった中年の男が、渋谷の駅前に立ち「皆さん!妻を探してください」という演説の稽古をするいわばラジオドラマの舞台になった日の前日を芝居にしようと思いました。

★これは当時八騎人(ハッキジン)と1973年の同じ年に旗揚げした大手の劇団円という処からの発注でした。

★だが脚本がほとんど出来上がり、キャスティングに入ろうという処で、中に立っていた五月舎で同期だったK君が突如疾走して行方不明になり、この話は白紙に戻ってしまいました。

★ラジオドラマは脚色の仕事も入って来るようになりました。中でも嬉しかったのは、私の見た映画の中でべスト3に入ろうかというアンジェイ・ワイダ監督の「灰とダイアモンド」の脚色の仕事が来たことです。

★当時の文芸劇場での放送で、マチックの役は橋爪 功さん、相手役の女に金沢 碧さん共産党書記長の役に金田龍之介さんという豪華な配役でした。

★この頃の橋爪さんはまだ全国区ではなかったのですが、「なぜこんなにもうまい役者が、もっと売れないんだろう」と思っていましたが、後年朝ドラでブレークして、見事な役者さんになり、何回か御一緒に仕事をさせていただきました。

★私の中では日本一の役者さんです。

★「灰とダイアモンド」ではポーランド出身のショパンの音楽を要の処で入れるように書きました。多分音楽の指定を脚本にしたのはこのラジオドラマが初めてだったと思います。

★ポーランドから苦い思いで出奔したショパンの無念で悲しい曲の感じが、マチックと女の恋愛の部分に切なく流れすばらしい作品になりました。またこの作品は、同じくアンジェイ・ワイダの以前見た地下水道も参考にして作り上げました。

★残念ながら、放送はFMではなく第一放送だったので、モノラルでしたが、自作品の中でも好きな作品です。

★それから山田正紀のSF「終末曲面」という作品の脚色もやりました。亡くなった蟹江敬三さんそして藤村 志保さんが出演されました。

★芝居は「泣け昭和、魂の涙きらめかせて」という大作を駒込の300人劇場で上演することになりました。

★ここに至るまで、劇団も小生もとんでもない、危機が襲うのですが、そのことは次回へ。

★本日はタイニーアリスで韓国の新人劇作家の芝居を2本観に行ってきました。発想的には日本人の若手より面白いのですが、劇としては今一でそれほど、感激しませんでした。韓国で見た「地下鉄」という作品のすごさには到底及びもつかない舞台でした。

★タイニィアリスが30数年の会場の歴史を閉じるとの事です。観客としては随分何本も観たと思ています。けれど八騎人・ギルドともにこの劇場はお世話になりませんでした。

★むしろこういう空間ではやりたくない、もっと広く大きな空間で芝居をしたいという考えの下にいずれの劇団もやってきたように思います。

★それが良かったのか、悪かったのかは良否の判断は尽きませんが、私達の現実はそういう事です。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 伝えたいこと
genre : 日記

テルミン演奏会

「蛍稽古B

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★さて、本日は私と演劇は休みます。

★夜阿佐ヶ谷ヴィオロンという喫茶室で「蛍よ~」で映像スタッフでお世話になった松田充博さんのテルミンの演奏会があり、出かけました。

★受け売りですが、テルミンは1919年にロシアのテルミン博士によって発明された、世界最古の電子楽器です。

★2つのアンテナの間の何もない空間を指で弾くというかはじくようにすると、不思議な音が聞こえてきます。

★「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の出演者の同窓会のように酒井さん澤登さん牧瀬さん土田さん八尋君我演奏会を聴きに来て、大変楽しい時間を共有しました。

★テルミンは聞いた者にしかわからないというか説明しにくい楽器で、普通はバイオリンとか弦の、それもクラシックの音楽の曲を弾く方が多いそうなのですが、松田さんは中国のニコの様な感じで独特の世界を弾きます。

★言葉にすると、大地と空の間を駆け抜ける風の中からセンチメンタルなノスタルジーな旋律が心の琴線に食い込んでくるような世界です。

★やっぱり言葉にすると陳腐になってしまいます。でも決してコンクリートや文明的な建物の間を渡る旋律ではないような気がします。

★松田さんは体調が必ずしも良くないと言っていましたが、実に素敵な演奏会でした。

★演奏がおわり、用事の為早めに帰った牧瀬さんを除き、久々の「蛍よ~」のメンバーと松田さんを囲んで阿佐ヶ谷の居酒屋で飲みました。

★楽しいおしゃべりの時間が過ぎていきました。芝居はこうした、始まるまでは知らない人達が一芝居終ると、ずいぶん昔からの知己や友達のようになり、語れたりすることの出来る稀有な出会いの場でもあります。

★そしてまた、30日とか40日稽古をやり、セットを造って、スタッフの様々な仕事をして、我々の場合は5回程の本番をやると、それが終わった時には何もなかったように、嘘のようにがらんとした劇場の何もない空間が現れ、それを見ると、本当にここで芝居をやったのかという気持ちになる瞬間が何とも言えないと松田さんは言っていました。

★そのはかなさ、危うさの為に何かを必死に準備し、悩み、積み重ねてきたのかと思うと、ほんとうに現実とは思えない現実に突き当たります。

★そして作・演出と主催者は会場を決める処から始まって、最後の清算までの長い時間は本当にしんどいのだけれど、
後になると一番目に見えない得をしたような気分になるのです。いや徳をもらえると言った方がいいでしょうか。

★苦しい部分を超えた何かが帰って来るので、(それも毎回違った形で)芝居は止められないのかもしれません。

★そんなことを殊更強く感じた夜でした。

★本日これまで。おやすみベイビー!また明日。

theme : 日々のつれづれ
genre : 日記

私と演劇29

「蛍稽古A

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★私と演劇 「29 本当のオリジナル」

★さて、ラジオドラマと並行して、八騎人の芝居は4作目に入りました。

★太平洋戦争末期長野県の松代の近くに大本営の地下壕を掘ったという話があり、それをもとに架空の東京郊外に大本営の地下壕があり、それを掘る工事をした人間が皆殺しにされて、怨霊となって蘇ってくるという芝居を書きました。

★これは芝居としては1作目の脚色でもなく、2作目の歴史の年表もなく、3作目の土台となるような自分の小説もない、完全なオリジナルの芝居でした。

★「野晒風道(のざらしふうどう)」と題した芝居はしかし、本当に書き上げるのに苦しみました。ある意味小劇団の芝居はラジオドラマより、登場する人数の制限であるとか、セットや衣裳に関する制約がありすぎます。その上にあらゆる補助的な松葉杖などなしのオリジナルを産み落とすという地獄のような苦しみを味わいました。

★半ばノイローゼ気味になって書き上げた作品は、異様に暗く、怪奇的で、何を言わんとしているのかさっぱりわからない作品になってしまいました。今考えてみても失敗作であったと思います。

★また主演する女優がなかなか見つからず、いかにもそういうタイプではない人を主人公の女に当てはめたので、殊更舞台にも魅力が出なかったのです。

★この頃は本当に書くという事の壁にぶつかり苦しい時でした。そんな時が半年~1年続いたと思います。その間ラジオはIさんに東海道線の大垣行の最終列車に乗って名古屋まで取材に連れてっていただき、「ふる里まとめて花一匁」という作品を造りました。

★初井言江・森本レオ・神保共子・富田耕太郎等芸達者な人たちが出演してくれて、東海道線の夜11時過ぎに東京駅を出る列車に実際に乗っての取材でした。

★ともかくラジオドラマで取材に行けたのですから、本当にうれしくわくわくしていたものです。

★名古屋で明け方に列車を降りて、旧庁舎のNHKの名古屋局へ連れて行ってもらいました。

★そして、名古屋局の方を交えて、おいしい食事などもいただきました。後にテレビ「中学生日記」の仕事で新庁舎のNHK名古屋にお世話になるのですが、その時はそんなことは想像もしていなかったのです。

★名古屋は昭和20年頃の大空襲の折ちょうど長野の軍需工場(ソニーの原点でもある日本測定器)の用事で親父に
つれられて、2歳の私が来たのだそうです。

★おりしもB29による爆撃、焼夷弾が夜空から降ってきて、防空壕に入れようとすると、私は夜空を焦がす焼夷弾の光がきれいだったのか、「キャッキャ」と喜んで、中々防空壕に入らなかったそうです。

★勿論二歳なのでその時の記憶はありません。でも名古屋は何ともそうした因縁の有る場所だったのでした。

★この時のラジオドラマ「ふる里まとめて花一匁」は、夢破れて、それぞれ故郷に帰る人たちを乗せた列車で、最後の落ちは酔っぱらった出稼ぎに失敗したおやじだけが生きていて、ほかの3人は皆幽霊だったという結末でした。

★この作品は何故かそんなに書くことに苦労したという思いではありません。列車に乗りながら、或いは一泊した帰りの新幹線でIさんといろいろ話して、ストリート骨格がほとんど出来上がっていたからかもしれません。

★苦しんだ芝居とは大きな違いでした。

★ただ、ラジオドラマが簡単だという事では決してありません。ラジオも別な意味で聴取者に絵が見えてこなければいけないので、ある意味テレビドラマよりずっと難しい創作媒体なのです。

★今回はこれまで。

★今日は夜、テレビ朝日アスクの2014年度後期の生徒の卒業講座の日で、高桐さんの講座に南川さんとおじゃまして、ほんの15分ほどしめくくりを話して、後に10人程の生徒と居酒屋で卒業の飲み会をやりました。

★今回の生徒たちは大変辛抱強く、最後まで、落伍者が出なかった珍しい期でもありました。彼らの健闘を祈らずにおれません。

★それでも意外に早く終わって、西武新宿まで来ると、所沢での人身事故とやらで、電車が止まっていて、西武新宿駅で1時間以上待たされました。

★それはいいのですが、事故後の対応が悪く、こちらはホームの前列で走り出してから2つも待っているのに、例えば高田の馬場から不正乗車で西武新宿に着く折り返しの列車の席は満員なのに、ラッシュ時のように一度そういう人たちを下して整列乗車をさせるということをおこたったり。

★高田馬場で動き出した列車が満員なのに、人員整理のストップをかけず、遅れているという弱みの所為か詰め込むだけ人を詰め込んで、朝のラッシュ以上の混雑だったりと、駅員の不手際が目立ちました。

★事故はしょうがないと思います。事故が起きた後、マニアルにばかり頼ってきちっと臨機応変な対処が出来ないのです。

★こういう処が日本の私鉄の良くない処です。おかげて11時前に西武新宿に着いたのに、帰り着いたのが2時近くになってしまいました。

★本日これまで。おやすみベィビーまた明日。

theme : 伝えたいこと・残しておきたいこと
genre : 日記

私と演劇28

蛍稽古29

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★私と演劇 「28 ラジオドラマそのハードな道」

★さて、デビュー作のラジオドラマ「風に舞う木の葉のように」から半年ぐらい後だと思います。NHKのIさんに呼ばれ、もう一本ラジオドラマを書くことになりました。

★何が書きたいかという事の話になり、色々話をしたのですが、うまくまとまりません。

★そこで、当時モーニングショーが民放各局はやっていて、横並びに何故か蒸発してしまった夫や妻を探すという特集がしきりと放送されていました。

★そこからヒントを得て、「ある男が渋谷の駅前で子供を連れて妻を探している。此れで書いてみろ」という話になりました。

★そこで「私の妻をどうか探してください」と渋谷の駅前で演説する男から書き始めました。やがて夜になり、そこに山手線を歩いて一周している男(今では珍しくありませんが当時そんな事をする酔狂な人間は居ませんでした。皆生活にいっぱいいっぱいで趣味や健康に時間を割くという考え方自体がなかったように思います)や、謎の女が登場するという物語です。

★その決定稿に至るまで、初めの別の話の試行錯誤も含めて、7回程書き直しました。

★大体の構想が決まってからは、一気に2晩くらいで書き上げたのを覚えています。

★ただ、この書き直しの途中は厳しいものでした。「この程度の物しか書けないのなら死ね!死んだ方がましだ」とIさんに怒られ原稿をゴミ箱に投げ捨てられたのです。

★後日笑い話として、Iさんにこの話をすると、「そんな死ね等と俺が言うはずはない」と否定されますが、私にはそのように記憶されています。

★当時疑心案儀だった私は同じNHKでディレクターをしていた早稲田の先輩のWさんに相談し、Iさんとはどんな人なんですか?と疑問を投げかけたぐらいだったのです。

★ただ後でわかったことにはIさんも必死になって私を育てようとしてくれていたのです。

★当時はそんな無名の演劇をやっている者が、ラジオドラマを書く等という風潮も薄い中で、高谷はいい素質を持っているので、私が責任を持って育てると上司に言ってくれたそうです。

★何はともかく、男には当時若手の演技派として売り出し始めた西田敏行さんを主人公の男を演じ、日活ロマンポルノから初めてNHKのラジオドラマに出演した宮下順子さんが謎の女を演じました。

★「赤いパラソル」と題した作品は苦労しただけあって、大変好評でした。

★後に演劇集団円でこれを芝居にしようという事になったのですが、ある特殊な事情でその話は白紙になりました。

★ともかく、このラジオドラマを乗り越えたことによって、なんとか私は書くというという事にささやかな希望を持ったのでありました。

★そういえば、初めてのラジオドラマ「風に舞う木の葉のように」のギャラをいただき、当時36000円くらいだったと思いますが、何か記念になるものを買おうとして、私は筆箱を買おうと思いつきました。

★小学校の頃、筆箱が買えなくて、いつも割れたベークライトの筆箱で我慢していたのを思い出し、書く事でいただいたギャラなので、筆箱ぐらい買ってもいいだろうと思ったのです。

★私の頭の中では筆箱は3万円ぐらいするような高い価値があったのだと思います。文房具屋に行き、たった600円という筆箱の値段を見た時に涙がこぼれるような気になりました。たったこれだけの値段の物が買えなくて、あんなに苦しい思いをしたのかと思ったからです。

★私は黒い、チャックのついた600円の筆箱を押し頂くように買ったのを覚えています。

★そして、多分2回目の作品で新品のシチズンの腕時計を買いました。

★大学に入学の時父が買ってくれたのは中古の腕時計だった(勿論ありがたかったのですが)のを思いだしたからでした。

★続きは次回です。

★本日は古くからの付き合いの府中に住むSさんの家に家人が先に行き、夕方小生も訪れて、晩御飯を一緒に食べ、夜帰ってきました。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

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genre : 日記

私と演劇27

蛍稽古28

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★私と演劇 「27 ラジオドラマとの出会い」

★さて、「魔都彷徨」-幻の母を訪ねてーの公演は確か12月だったと思います。この頃は今と違って女優さん自体の数が圧倒的に少なく、主役の麻耶を探すのに随分苦労して、2転3転したことを覚えています。

★赤坂国際芸術家センターではその頃、松田優作も自分の劇団で芝居をやっていて、既に映画などで売れていた頃でした。

★この公演か次の公演か忘れましたが、こちらの仕込の日に前の公演で、大量の砂を使ったらしくバラシが間に合わず、
半日仕込の予定が遅れたことがありました。

★これはバラシの予定の立て方が甘かったので、とんでもない責任問題でした。その主宰者が松田優作でした。

★松田は仕込の間に合わない、次の芝居の主宰者の私に深々と頭を下げ謝りに来ました。その誠実な対応が清々しく、こちらの怒りも忘れて、私はなんとなくいい男だと思いました。

★当時の松田優作はマスコミ的には優れた演技者というより、とんでもない、暴れ者というもっぱらの評判だったので、「こいつ、結構ちゃんとしたいい奴じゃないか」と思ったのです。しかしその後彼とは芝居やラジオドラマをすることなく、ただ、その時一点で交差しただけでした。

★さて、年が明けて、NHKにディレクターのIさんに呼ばれました。「何か書いてみたいラジオドラマはないか?」との質問に<私はかねてから小説に仕掛けていてうまく書けなかった、「もう一つの七日間」という物語の事を一生懸命語ったと思います。

★忘れもしません、NHKの当時8階より上の11階か12階にあった喫茶室でした。

★黙って私の話を聞いていたIさんは「じゃあ、それを書いて見なさい」と言いました。

★毎日決まって判を押したようなサラリーマンの生活に飽きた主人公がある日妻との生活から蒸発して、洞窟の中から毎日の決まりきった生活を日記風にテープレコーダーに吹き込んだそのテープだけが発見されるという、いささかSF風な自伝的な物語です。これが私のラジオドラマデビュー作「風に舞う木の葉のように」でした。

★多分その時2,3回の直しを受けただけで、収録されオンエアーされました。小林勝也(偶然な事に彼は同い年で、早稲田の一文の演劇科を卒業した文学座の俳優でした)の主人公にその妻二宮さよ子(文学座)、それに父親役で新人会の井上昭文さんが出演しました。

★放送が決まったとき父親が大変喜びました。借金を重ねて、その言い訳もろくにしていなかった親戚に電話をかけまくって「今度、信之の書いたラジオドラマが放送されるんです」と喋っていいたのを見て、多少なりとも親孝行ができたかなと思いました。

★丁度その放送の前に、毎日新聞に私と佐久間崇等4名の写真入りで、最近若手の劇作家がラジオドラマを書きはじめたという記事が載ったのです。親戚のおじいさんがなくなり、池上本門寺で政財界のお偉方が弔問に来た時、控室でおばあちゃんから「信之ちゃん、新聞読みましたよ」と言われ、初めて、親戚中のつまはじきだった河原乞食同然の私が認めてもらえたのです。

★そしてラジオドラマを更に書く事となるのですが、2,3回の直しで決して舐めていたのではないのですが、2回目のラジオドラマで大変な事が起こりました。

★この話は次回で。

★本日は国会図書館で脚本アーカイブズのシンポジュームがあり、受付の手伝いなどを新しく劇団員になった長谷川と二人で手伝いました。立ち続けていたので、腰に来ました。

★71歳も終わりそうににもなって立ちっぱなしの受け付けはしんどいことだと思いましたが、これも亡くなった市川森一さんの遺志でもあるので、頑張りました。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。

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わたしと演劇26

蛍稽古27

★写真は「蛍よ・・・妖しいの海を翔べ」の稽古風景です。

★私と演劇「26 脚本の書き方」

★さて演出は何回もしたものの、脚本は「八騎人」が始まるまで、1本も書いてみたことのない私でした。ですが、結果的に私は慎重に創作するという行為に実に手堅く徐々に入っていったのです。

★というのは昨日言ったように、わたしの戯曲処女作はホレス・スマッコイの「彼らは廃馬を撃つ」という小説とそれを基にした映画「一人ぼっちの青春」という脚本を参考にして、映像を舞台的に変え、小説を舞台的に変えて書くという作業から始めました。

★幸いなことに、ホレス・マッコイという作者はハリウッドでもシナリオを描いていた作家で、小説事体もかなり演劇的な部分がありました。されらを旨く加工して、小生の得意としていたモノローグ(独り言)をちりばめたのです。

★人とほとんど1週間の内、駅の売店でおばさんに「ハイライト」と言葉を発するだけの生活を長くしてきましたから、何かになろうとは思わなかったけれど、心の中の独り言モノローグだけは溜まっていました。

★小説でも詩でもなくモノローグを作品として売れたらと思ったほどでした。

★そういったモノローグに挟んでカップルの激しい踊りがジャズをバックに盛んに動的に演じられ、ある者は狂って脱落し、ある者は妊婦を抱えて踊りつづけるというすさまじい会場に、ハリウッドのお偉方が観客席に冷やかしに来て見ているという構造です。

★しかもそれを仕掛けたプロモーターは相当の詐欺師で、3か月後に優勝した人間に賞金は出すのですが、優勝したカップルだけには、3か月分の食費と洗濯代シーツ代が請求され、その賞金は取り上げられてしまい、チャラになるというペテンなのです。

★ここでは本当に様々な人間が賞金目当てで社交ダンスを2時間踊ると15分休むという事を繰り返していくという芝居でした。

★さて、次の年同じ観音ホールで今度は「命舞い」という芝居を書きました。これは、幕末の年表を独自に作り、その年表に沿って主に人斬り達が上級武士に如何に利用され、時代の中に滅んで行ったかという芝居でした。

★岡田以蔵・田中新兵衛等のいわば下層の人斬り武士がいかにして明治維新を駆け抜けていったかという芝居で、最後は「ええじゃないか、ええじゃないか」の大乱舞で終わるという芝居です。

★時代の波に翻弄され、人をむやみやたらに切り殺さねば生きてゆけない下級武士の悲哀を3曲の歌と踊りを挟んで作りました。

★最初はお手本の小説とシナリオからの脚色、次の回は歴史の年表の軸をきっちり書いて、そこで人物を動かせていました。

★こういう芝居ではどんなに調べても商売と、対立する勢力をまとめるという坂本竜馬は全く演劇的ではなく、私の芝居には結局出てきませんでした。高杉晋作の方がよほど演劇的だと思います。

★争う人間負ける人間がドラマに成るので、まとめて商売にしていくという人間はまったくドラマに成りません。そんなこともあって、坂本竜馬はだぃっ嫌いです。

★いまだに武田鉄矢や多くの人に坂本竜馬が人気があるのがわかりません。あの計算高い、まとめやのフラットな生き方のどこにみりょくがあるのでしょうか?

★それはともかく、けがをした人が、松葉づえをついて歩き始め、やがてステッキで歩くようになるように実に私は慎重に脚本を書いて行きました。いきなりオリジナルな空想は書かなかったのです。それが結果的に良かったと思います。

★そして第3回めは赤坂の国際演劇センターという名ばかりがいかめしいぼろ小屋て゛芝居をやることになりました。

★そこで初めて、私はかつて20代の無聊の日々に書くともなく自分で書いた「魔都彷徨」という小説を芝居にすることにしたのです。

★これには元のシナリオもなく、史実という逃げ道もない全く私のオリジナルな世界でした。

★終戦後荒川の淵に捨てられた荒淵 慚という男が自分を捨てた母を訪ねて、上京し流離うという芝居です。

★この芝居をたまたま見に来てくれたNHKのIさんというディレクターが面白いと言い、NHKへ呼ばれたのでした。

★ここから私とラジオドラマの世界が始まりますが、それは次回。

★本日は夜テレビ朝日アスクの生徒の卒業生が色々話を聞きたいというので、夜会ってコーヒーを飲みながら話しました。

★去年の後期の生徒でなかなか脚本の素質のある者なので、励まして、いろいろ頑張るようにハッパをかけました。
頑張ってほしいものです。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

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私と演劇25

蛍稽古26

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★私と演劇「25 八騎人(はっきじん)結成」

★1年4公演の舞台経験を経て、我々は養成所を卒業しました。8人のメンバーで八騎人を結成したのですが、新しい公演の稽古を始める前に女の子2人が止めて行きました。6人で何をやるかという事になり、当時見た映画出ジェーンフォンダの主演した「一人ぼっちの青春」という映画を元に芝居を造ろうと私が提案しました。

★8月公演に向けて、私とM君がシナリオから芝居に脚色することになりましたんが、M君が途中で脱落し何とか私が公演台本を書き、演出をすることになりました。

★これには元々小説の原作があり、ホレス・マッコイという作家の「彼らは廃馬を撃つ」という小説が原作でした。

★1920年代アメリカの各地で実際に有ったマラソンダンスを題材にした作品でした。後に作家となる常盤新平さんが訳されていて、角川書店を通して、常盤さんに会い許可をいただきました。原作とシナリオとを混ぜ、そこに暗黒舞踏系統の踊りも入れて、不思議な舞台になりました。

★当時高校の小さな体育館のような、荻窪の観音寺ホールという処で、舞台にお客を乗せ、下のフロワー男女がでペアーを組み踊りながら芝居が゛進んで行くという変わった舞台でした。

★一生懸命人も集めて、18人程の出演者でやりました。主役の女子が下りたり大変な事はたくさんありましたが、なんとか乗り切れた公演でした。

★何よりもエネルギーとガツツだけはありました。真夏川崎の京浜協同劇団の稽古場まで通い、冷房のない中、上半身裸で演出したのも今では懐かしい思い出です。

★公演が終り、1か月ほどして、何のコネもなかったのですが、雑誌「新劇」の大島勉さん「テアトロ」の小松幹夫さんから劇評で絶賛されるという幸運の船出が八騎人は出来たのです。

★そういう事がなかったら、多分2,3回でこの集団はバラバラになり解散していたと思います。ラッキーでした。

★1973年のことでした。続きは次回。

★本日は北村と新しく入った長谷川が事務所兼自宅に来て、今年の公演場所を午後3時頃から11時過ぎまで探しました。

★本日これまで。

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私と演劇24

蛍稽古25

★しゃしんは「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★私と演劇「25養成所時代2」

★さて、五月舎の養成所でダンスと声楽のレッスンと並行して、宮本 研作の「美しきものの伝説」の稽古とアリストファーネスの「女の平和」の稽古に入りました。

★ダンスの稽古は正直大変でした。ついて行けません。一列に稽古場をふりをしながら通り抜ける時はコマ劇場のダンサーだったK君の後に、ぴったりとついて真似をしたのですが、うまくいきません。

★当時は今と違って、男も黒いぴったりと足に着くタイツを履いて踊っていました。20代ももう30になろうという硬い躯、しかもマラソン以外ほとんど躯を動かしたことのない躯が動くわけがありません。

★一度ダンスの稽古を覗きに来た五月舎の主宰者の本多さんが、小生ともう一人の鈍いT君の二人に、「もっと初級のクラスから習いなさい」と言われたのですが、担当のz先生が美人だったこともあって、僕らは頑として聞き入れず、その教室で黙々と踊りともいえぬふりをつづけたのでした。

★尾行は台本にない1シーンを勝手に付け加え、野枝が大杉に会いに行くところで、舞台奥に登場してキセルでたばこを吸ったりしましたが、演出の木村さんは出番が少ないのを気の毒に思ったのか何とも言いませんでした。

★又この芝居の中には劇中劇で浅草に大杉栄や伊藤野枝辻 潤が芝居を観に行くシーンがあって、そのシーンの台本を造り演出しました。

★近松の曽根崎心中やシェークスピア劇等を同時進行でまぜこぜにして、おまけに会場から当時はやっていたハプニング劇のように私が舞台へ飛び乗っていくという仕掛けでしたが、事情が分からない大杉役のF君に本意気の力で袖まで押し飛ばされました。

★ただ、作者の宮本研さんがこの公演を見に来て、今までの中で劇中劇が一番面白かったと言っておられたと聞き、溜飲が下がりました。

★冬の公演は別役実さんの「赤い鳥のいる風景」を早川演出で雑貨屋の親父をやり、好評でした。

★早野さんは、リズムをとってほとんど動きを振付けるタイプの演出家でしたが、比較的男の俳優には自由にやらせていただきました。本来頭に撒くはずのタオルを私は当時はやっていた全学連のように口を覆うようにして後ろで縛ったら、「面白い」といって採用してくれました。

★一方木村組は「ロミオとジュリエット」でロミオの親友ベンボーリオの役をやりました。階段を軽々と2段も飛び越したのを見て、家人はびっくりしたと言いましたが、その程度は舞台で出来たのです。何せ30歳ですから・・・・

★こうして卒業公演は終わり、1年の養成所生活は終りました。終わったからと言って何かその先に有るわけではなかったので、在学中にオルグしておいた8人で劇団を造ることとしました。

★映画監督の黒沢明たちが四騎の会という集団を作ったのにあやかって八騎人(はっきじん)と名乗って劇団を造りました。

★その八騎人の話は次回。

★本日は下北沢711に、はせきょう作の「奇妙な果実」という芝居を観に行きました。「蛍よ~」にも出ていた仲田正道君が出ていました。

★昭和16年の銀座のとあるバーを舞台にした芝居でなかなかよくできたいい芝居でした。照明と音響をこれも「蛍よ~」で映像を担当していただいた松田さんがやっていました。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

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私と演劇23

蛍稽古風景E

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★私と演劇 「23 養成所時代 1」

★何かやるのなら芝居しかない。それは亡くなったK君の分も生きようという決意のもと、29歳の私は芝居の仲間を探すべく養成所を2つ受けました。

★1つは、劇団青俳、木村 功と織本 順吉さんが率いている劇団で後に蜷川幸雄さんや石橋蓮司さん蟹江敬三さんを生み出した劇団で、もう一つは本多 延三郎さんという映画畑のプロデューサーをやっていた方が主宰する五月舎という集団です。

★当時の募集年齢は18歳くらいから25歳まででした。そこに29歳の私は25歳と偽って応募したのです。

★幸か不幸か私は両方の養成所に受かりました。ただ五月舎の方は募集要項として、劇団養成所を卒業乃至はそれと同等の力のある者という条件がありました。

★迷った末、五月舎を選びました。もしもはタブーですが、青俳に入っていたら、蜷川さんや現代人劇場等に関わっていたかもしれません。が、それは分かりません。

★五月舎は文学座の演出家木村光一さんと、俳小の気鋭の演出家早野寿郎さんが2チームの座組みをして、前期と後期2つずつの公演を生徒に実体験させ芝居をつくるという基本方針の処でした。

★勿論基礎講座として、発声や苦手なジャズダンスの講座もありましたが、芝居を造っていくという体験は素晴らしい俳優養成方法でした。

★木村組は美しきものの伝説・早野組はギリシャ悲劇の「女の平和」をそれぞれ俳優座劇場で上演するという贅沢な授業でした。

★入った日本青年館での入所式の日、私の年齢詐称は休憩時間のトイレでもうバレてしまったのです。

★というのは当時25歳だった早稲田の2文の演劇科卒業生が中に居て、小便をしながら、担任の先生の話などをしていたら、どうもかみ合わず、すぐ私が相当年上だという事がばれてしまったのです。

★不思議な事にその40名程のクラスにもう1名、わたしと同年29歳の男が居ました。M君です。

★M君の年齢を見破ったのは私です。

★当時ジーパンやズボンはパンタロンの全盛で、ほとんどの若者がパンタロン風のGパンを履いていたのですが、M君は一人、60年代風のイタリアンカットの先のとがったブーツを履き、一人これまた60年代風のマンボズボンのように裾の細くなったGパンを履いていたからです。

★後にM君とは劇団を組み、彼は役者と制作で素晴らしい活躍をするのですが、この時は「俺と同じに年をごまかしている奴がいる。しかも服の偽装も出来ずに、こいつバカなんじゃないの?」と私は思ったものです。

★私はとにかく、人の倍やろうと思っていたので、木村組と早野組両方の授業に出ました。そして前期の公演「美しきものの伝説」では、オーディションで競り負けて、尾行という本当の端役を演じ、女の平和でも衛兵のセリフのほとんどない役をやりました。

★競り負けた相手がコマ劇場でダンサーをやっていたK君という男でした。K君にもその後大変お世話になり、今も時々ワークショップの講師をやってもらったりしています。

★いずれにしろこの養成所から再スタートが私の芝居の命運を変えていくのですが、その話はまた次回。

★さて、本日は「蛍よ~」で出演していただいた牧瀬 茜さんのパフオーマンスを明大前のキッドアイラックホールに(これは新装なっていましたが懐かしい会場です)観に行き、10数年ぶりに今回の主宰者である万城目純さんにも会いました。

★「エンターレランス・入口多数」というパフォーマンスで、万城目さんは相変わらず研ぎ澄まされてビュアーな深い世界を表現されていて、詩と踊りと音楽が実にいい感じで融合していて素晴らしい時間と空間をいただきました。

★牧瀬さんの素晴らしいことはこの上ないものでした。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

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私と演劇23

蛍稽古風景D

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★私と演劇 22 芝居への再出発

★さて、その間は演劇と関係がないので23歳から29歳までの事は省きます。

★29歳になった時、親友A君の弟K君が正月早々自殺するという事件がありました。A君は理科系の優れた頭脳の持ち主で、主に電気の設計施工などをやっていました。ところが弟のK君は典型的な文系の人で、当時大学生で「如何に生きるべきか」等と大変悩んでいました。

★静岡にいるA君から、弟の話を聞いてやってほしいと言われたものの、私自身がどう生きて行ったらいいかと煩悶していた時期で、東京に居たにもかかわらず、ほとんどK君と会い相談を受けてやることが出来ませんでした。

★そのため、K君が自殺したことに本当にショックを受け、自責の念に駆られました。「なんとかしてやれなかったのか?せめて話を聞くことぐらいしてやったら良かったのに」と私は自分を攻め続けました。

★しかし、亡くなったK君はどんなに後悔しても戻ってはきません。

★私は打ちのめされました。と同時に人間のはかなさ、虚しさを深く感じ続けたのです。

★人は何のために生きるのか?考え続けた末、当たり前のことながら、私はやはり何かしら目的を持って生きなければと思ったのです。

★既に27の時に結婚はしていましたがしかし、私は目的とかウ゛ィジョンを失っていました。

★私にとって生きるとはなにか?考えた末、演劇という場所しか私にはないという処にたどり着きました。

★だが、芝居も観ず、仲間もいない状況で、芝居は出来ません。

★仲間とか、或いは芝居の出来る場所へ身を置かなければ芝居は出来ないのです。

★私は俳優の養成所に入る事を思いつきました。すでに29歳という年齢に達していましたが、それをやってみようと思ったのです。続きは次に書きます。

★そして今日は、ドコモショップでも駄目で、プロバイダーに電話をして試行錯誤の上、やっとのことスマホからEネールが読めることになりました。

★また眼医者に行き、ずいぶん待たされて、視野検査と、眼底検査をしてきました。

★なんか損をしたように感じた一日でした。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

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私と演劇22

蛍稽古風景C

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古場の風景です。

★私と演劇「22 早稲田を離れて」

★さて、早稲田を完全に横に出た小生は、仲間を募ってラシーヌの「ブルタニキス」という芝居を上演しました。会場も今は覚えていません。新宿近くの初台あたりの小さなホールのようなところでした。

★その頃創作劇自体がまれで、突如自由劇場 佐藤 信の「地下鉄イスメネ」というチラシが早稲田に貼られて、これが同期の男であると知って何故かまぶしい思いをしたくらいです。

★新劇団自由舞台からはもう心が離れていました。自由舞台からの卒業生のこちらの後輩が、鈴木忠志から呼び捨てで呼ばれて、小生はいつまでたっても「高谷くん」と鈴木さんから君づけで呼ばれていたという外様的感覚と、もう一つはモンシェリと言う小さな喫茶店の上の小さな劇場で芝居を始めた事の違和感が私にはありました。

★何はともあれ、芝居としては当時の私にとって、3時間あるいは3幕のスペクタクルな芝居がやりたかったからです。

★しかしブルタニキスは何とか芝居になったものの、思ったほどの手ごたえはなく、赤字も出して、たちまち集団としては破たんし「青の劇場」と名乗った集団はたった1回の公演で終わってしまったのです。

★その時小生23歳。それから29になるまで、約7年間芝居とは一切の縁を切りました。と言うより、芝居事体が出来なかったのです。

★出来ないとならば、一切の芝居は見たくありません。

★私が芝居を止めていた間に、早稲田小劇場・自由劇場から黒テント・状況劇場の赤テント・早稲田の教育学部の上に居た「仲間」という劇団の一つ年下の東 由多加を取り込んだ寺山修司の天井桟敷等が一気に人気を得て、アングラ全盛の時代が゛来ていたのです。

★やがて、7年後29歳になったとき、民芸・文学座・俳優座・俳優座の衛星劇団・葡萄の会・東京芸術座ぐらいしか劇団の無かった演劇状況のの勢力図は見事に変わっていたのです。

★23から29歳までの漂泊の様子は芝居とは関係がないので、後日語る時まで取って置きます。

★あるきっかけから私は再び芝居をやろうと決心するのですが、その話はこの続きへ。

★本日、家人がガラケイをスマホにするというので、小生がドコモショップへついて行ったら、割引があるよと勧められてスマホを又買い換えてしまいました。やれやれ。

★その後奥山さんすなわち立川 侊しんさんの落語を聞きに四谷のコタンへ行ってきました。 せんだ みつおさんも来て喋り、楽しい一時でした。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。

私と演劇21

蛍稽古風景B

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★私と演劇 「21 早稲田での演劇」

★さて、こうして早稲田で6年の間に5本の作品を演出したのですが、大学とは卒業するところで、決して住み着くところではなかったので、結局再入学までしたにもかかわらず、全部で36単位しか取れずに私は早稲田を首になりました。

★稽古場は後に劇研から出火して全焼してしまった旧21号館の裏の長屋にあったものですから、高田馬場の駅から歩いて行って、戸塚一丁目の路地から21号館裏の部室と稽古場のある長屋へ折れ曲がって通っただけで、戸塚坂を下りて右手の文学部の校舎へ顔を出す事はほとんどなかったの6年間でした。

★役者としてはゴーリキーのどん底の役者の役や、石原慎太郎作の「狼生きろ豚は死ね」の平木 圭吾役とか、3分程舞台に出てちょっと笑わせて引っ込む役などをやりました。

★そういえば新人歓迎会で木下順二の「3年寝太郎」の寝太郎役をやったのですが、舞台上で何かのはずみで笑い出してしまい、笑いが止まらずに苦しくなって、涙が止まらなくなったことなどがありました。

★また地方公演は仙台へ行き「御料車物語」をやったり、九州の小倉・大分・延岡を3か所回る小林 勝作の「檻」の公演では、小倉に1か月泊り込みで制作の手伝いをやったりしました。

★その九州公演では装置と大道具プランもやり、大分の直撃台風の中、濡れながら裸にパンツ1丁でリヤカーで3×6にきっちりと重ねた装置のパネルを当時は開通した真夜中の列車にチッキで載せて、延岡に運んでギリギリ公演に間に合わせたりもしました。

★当時高速道路もなく、トラック便はなかったので、セットは蝶つがいで折りたたみ、3×6にきっちりして、チッキで送ったのも懐かしい思い出です。

★チッキといっても、多分今の若い方は何のことかわからないと思います。分からなければ60代以上の方に聞いてください。「チッキでセットを送るとはどういうこと?」と。

★こうして、学生演劇「こだま」と学生演劇上がりのプロ劇団「新劇団自由舞台」でもまれながら多くの事を学びました。

★セットのパネルはベニヤ板などがまだ普及していなかったので、目板で格子にして垂木で枠を取った板に、新聞紙を何回も貼って乾かし、何日もかけて3,4枚貼って、ベニヤ板よりもパンパンの硬い板を造りました。

★カラーペンキなどは普及していなかったので、との粉を塗り、その上に刷毛で丁寧に色を塗ったものです。全てが手作りでアナログでしたが、あれこそ芝居の原点だったと思います。

★さすがに効果音はモスクワ芸術座みたいに役者が袖で、動物の声も機械の音も真似してやるという処まではやりませんでしたが、ほとんどが手間をかけて、かけたなりの味わいが舞台には出ていたと思います。

★さて、早稲田を横に出て、その頃アングラとか小劇場の機運も全くない頃、一度だけあるホールを借りて公演をやりました。それは又明日の話とします。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 伝えたいこと
genre : 日記

私と演劇20

蛍稽古風景A

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★私と演劇「20 自由の最初の日」

★さて、早稲田の生活も5年目に入るのですが、再入学したにもかかわらず相変わらず授業には全く出ずに劇団「こだま」で芝居をしていました。

★ポーランドの作家クルチコフスキーの作品で「自由の最初の日」という作品を6月に演出することになりました。

★この時「自由の最初の日」を翻訳された、現神奈川大学の名誉教授中本 信幸先生と出会いました。

★中本先生には本当にお世話になり、後に出てきますが、ロシアのウラジオストック演劇祭に連れて行っていただき貴重な体験をしました。

★さてこの芝居は東欧の第二次大戦下の抵抗詩集を芝居の中に挟みながら上演しました。第二次大戦が正に終わった直後の芝居だったのです。

★その後私は一端芝居から手を引き高田馬場のバーでバーテンダーをしたり、池袋のバーのバーテンダーをしていた時期があります。しかし水商売はある意味緩くしかも昼間の仕事よりは少し多く稼げるので、人間が駄目になると思い、1年程でやめたのです。

★止めて、東村山という狭い処で生きている父に頼んで、ガソリンスタンドと米屋を経営している会社に社員として就職しました。

★もうすべて芝居は止めたつもりでした。

★しかし、芝居への未練が絶ちきれません。就職したガソリンスタンドを止める為には父のメンツを全てつぶすわけですから、家を出なければなりません。

★私はボストンバック一つで家を出たのでした。

★家を出て、後輩のアパートや先輩の家等を転々としました。しかし、客としてのいそうろは誰も3日が限度でした。4日目嫌な顔をされないうちに、当てもないのに「ありがとう。もう大丈夫だから」と言って友人の家を出るのです。

★ほんの少し持ってきた金は忽ち底をつき、アルバイトも決まりません。1日おきに学生食堂の素うどん1杯等という日が続きました。

★映画を観た帰り、急に雨が降り出し、帰るところがなく、本当に途方に暮れて映画館の前で降り続く雨をただ見ていた記憶だけが鮮明に在ります。

★あの時は何処に泊まったのかは覚えていません。勿論泊めてくれる女友達もいなかったのです。

★しかしその時私は芝居をやろうと考えたのです。秋でした。11月早稲田祭にエントリーすると若干の芝居の為のお金が出たように記憶します。プリーストーリーの短編小説を後輩の、後に映画監督になるHに脚色を頼み、こだまOBの出演者を説得して、1幕物の芝居にして、早稲田祭で上演しました。

★泊まる宿もなく、一銭の金も仕事もない処から、それでもささやかな芝居を造ったという自信はこの後大変な自信になりました。「やる気さえあれば芝居は何もないマイナスの処からでもやれるんだ!」という自信です。

★この経験は実に貴重な経験でした。勿論1人で芝居は出来ません、それを造る為にはキャストとスタッフの力なくしては成り立たないのですが、誰かが、何かを呼びかけない限り、芝居は何も始まらないのです。

★本日はここまでです。

★さて、本日は1と月半ぶり位に大泉の病院に定期検診に行きました。やはりというか残念というか、ヘモグロビンA1cは7.9まで上がってしまいました。血糖値173。あまりよくありません。やはり芝居で飲みすぎたのかとも思われます。

★昨夜童話作家の松谷 みよ子さんが亡くなったのニュースを聞きました。

★実はこうして大泉の病院に通っているのも、以前劇団ギルドの事務所は大泉学園にあり、事務所の大家さんが松谷 みよ子さんだったのです。

★約8年くらいの間に何回か会ってお話をさせていただいたことがありますが、実に優しく、温和な方でした。決して偉ぶらず、しかも教養と品格のにじみ出る素晴らしい先生でした。ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。合掌。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 伝えたいこと・残しておきたいこと
genre : 日記

私と演劇19

蛍演出風景

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の演出風景です。

★さて、都合3年程やった有楽町読売ホールでのバイトです。読売ホールは当時そごうというデパートの8階に有ったので、夕方になるとデパートは閉店になり、5基程あったエレベーターをエレベーターガールから引き継いで運転するわけです。

★5人で1基ずつ運転するのですが、(当時のエレベーターは自動ではなく、ハンドル操作だったので、必ず運転する人間が乗っていました)読売ホールは劇場なので、お客が入る時と帰る時にエレベーターは一斉に動き、それ以外の時はたまに気分が悪くなったり、急用で芝居やイベントの途中で降りる人、また遅れてくる人などの為に1基稼働していればよいのでした。

★すると公演の途中は4人は休みという事になります。その間本を読んだり雑談したりするのですが、芝居やイベント好きの私は休みの間、2階席の邪魔にならない処で、芝居などをずっと見ていました。

★当時は30日間の公演などがほゞ中心だったので、例えば「民芸」の芝居があれば、30日同じ芝居をずっと見ているのです。

★例えばあの伝説の滝沢 修等の芝居は30回椅子を片手で振り上げるシーンがあるとすると、30回精密機械のように微動もせず毎回繰り返すのです。それに比べて清水 将夫や細川ちか子等はその日その日によってコンディションが違い、時に芝居をとちったり毎回演技が違うのです。

★確かに目の当たりに観た芝居の神様と言われる滝沢 修はすさまじい演技でしたが、何故か人間味が感じられず、それほど感動しなかったのを覚えています。

★よみうりホールでは東宝現代劇から新国劇、新劇の色々な劇団や時にはイギリスやフランスから来た演出家の通訳を介した舞台稽古まで何回も同じものを見ることが出来ました。

★この同じ芝居を何回も観るという稀有な体験が、後に芝居を書いたり、演出したりするようになり、どれだけ役に立ったかわかりません。

★印象に残った舞台は数々ありますが、新国劇の「人生劇場」では、本当に楷書の硬く渋い芝居をする島田省吾と
辰巳柳太郎のぬえのように柔らかな何とも言えない芸風が同じ劇団で共存していたのをまるで奇跡を覗くように見ていたのを昨日のように思い出します。

★若き日の現在の吉衛門や幸四郎の対照的な芝居も印象に残っています。

★好きこそものの上手なれと言いますが、上手かどうかはともかく、30回同じ芝居を好きで見続けるという体験が後々本当に役に立ったのです。

★さて、早稲田祭に参加した芝居で、ある時ジャン・コクトーのオィディプス王を劇団「こだま」でやったことがあります。

★どう間違ったのか、その時無謀にも私は主役のオイディプス王を演じたのですが、見事に失敗しました。

★ひょろひょろの体格(167センチ47.5キロ)でしかも独特の高いしわがれた声で、主役が出来るわけもありません。発声法もろくに出来ていなかったので、本番では声まで枯らしてしまいました。

★ただ、大隈講堂でやったこの舞台では鈴木忠志が、何の拍子かコロスの長の役で、モノローグで色々と芝居の進行を説明する役を引き受けたのです。

★おそらく、役者だけで存在した鈴木忠志は後にも先にもこれだけだったと思います。演出はこれも亡くなってしまったのですが、後にNHKへ就職したWさんが担当し、Wさんは生前天下の鈴木忠志を演出したのは俺だけだと随分自慢していましたが、芝居はともかく、小生のオィディプス王は惨敗に終わったのでした。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。

theme : 備忘録的なもの
genre : 日記

私と演劇18回

蛍稽古17

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★さて、劇団「こだま」の演出と共に、新劇団自由舞台で役者をしていた頃の話をします。

★多分私が20歳の頃だったと思います。都立北園高校の文化祭に呼ばれてチェホホフの3作品「熊」「結婚の申し込み」ともう1作品(忘れてしまいました)を上演しました。その作品の間に2人の掛け合いがあり、それが繋ぎになっていました。

★その繋ぎの部分を、その頃劇作家として認められてきた別役実が書いてくれました。

★几帳面で割合ハッキリして角ばった字が400字詰の原稿用紙に書かれていました。今その原稿用紙を取って置いたら宝物になるだろうと思いますが、散逸して今はありません。

★ともかくその男1と男2を、亡くなったミツカン酢の御曹司だったI君とやったものです。今で言うコントのような台本で、なんとなく笑わせて、繋げなければならないと荷が重く、でも頑張ったのを覚えています。

★その頃鈴木忠志は「今の劇団はなあ、高谷君、こんな文化祭でもなんでもとにかく芝居をやって皆を引っ張っていくしかないんだよ」とポツンと言った事が忘れられません。後に世界の鈴木忠志になるのですが、こんな時もあったのです。

★劇団を2回持つようになってこの言葉はいつまでも繰り返し耳の中に蘇ってきます。

★そうです。劇団という集団はどのようにしても、どんな状態でも公演を打たなければ成立しないのです。しかしそのことは主宰者を常に苦しめる事でもあります。

★打ち続けること・・・・15年の間に33回打ち続けて来ましたが、これは本当に大変な事です。何の補助も助成もなしに(1回だけ都の助成金をいただきましたが)15年間打ち続けるという事は。

★さて、そんな中、劇団は時々7、8人が集まり、事務所とかはないので、たいてい渋谷とか高田の馬場のクラシック喫茶で総会(ミーティング)をやりました。

★こういう時やがて別れることになる鈴木忠志と別役実が、いつも真っ向から演劇論(演劇とか劇団のあり方について)でぶつかっていつまでも討論していたものです。だが、悲しいかな演劇的教養のない私には二人が何を言っているのかさっぱりわからなかったのです。

★これではいかんと私は思いました。いくら最年少の新人劇団員と言えども、話がさっぱり分からないのでは申し訳ないと
思ったのです。何とかしなければならない・・・・

★その時とにかく私は戯曲を読むことだと思いました。早稲田の古本屋で当時10円か30円だった演劇専門誌「新劇」「テアトロ」「悲劇喜劇」等の古本を何冊か買い求め、それを1日1戯曲読むと計画立てたのです。

★私はとにかく自分で決めたことだけは守ります。現にこのブログもブログという物は欠かさず毎日書くものだという決心を自分にしたので、2009年頃より、欠かさず毎日書いています。(3回程やむなくかけたけれど)

★人間自分が自分に誓ったことを破ったらおしまいという考えが小生にはあります。

★約1年半くらい、たとえ皆と飲んで酔っ払っても、或いは睡眠不足の時も、枕元に重ねて置いてある演劇雑誌の中に載っている戯曲を、たまたま手にした1冊の中の1つを毎日1本読み切ると自分に誓いました。

★約1年半の間4、00~450本戯曲を読むうちに、なんとなく鈴木忠志さんのいう事や別役実さんのいう事が分かるようになってきたのです。

★これは後に戯曲やドラマを書くようになった時に、どれだけ助かったか知れません。書く上での手本や師匠は私にはいません。しかし、500近くの脚本を若いころ読んだことが戯曲やラジオドラマテレビドラマを書く上で本当に役立ったと思います。

★もう一つ読売ホールという処で、エレベーターボーイのアルバイトを3年程して、そこで、同じ芝居を何日も観られたことがものすごく役に立ったのですが、それはまた明日か次に書きます。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。

theme : 伝えたいこと
genre : 日記

私と演劇17

蛍稽古16

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★私と演劇「17 焼けたトタン屋根の上の猫」

★さて、私が預かっていた授業料を受け取りに、すっかり姿の変わったT子が喫茶店の入り口のレジに近づいてきました。

★彼女は「何か預かり物はないか?」とレジの女の人に尋ねているようでした。私は2階席から階段を下りて、T子の処へ行き声を掛けました。彼女がやっと私に気づきました。

★表に、ここ数日一緒に住んでいた男が待っているというので、その男も呼び寄せました。

★男はHという男でT子に言わせると「革命家」という事でした。日本に革命家がいるのか?単に学生運動をやっているだけじゃないかと言いたかったが私は黙っていました。

★すると伏し目がちに卑屈な目をしたHはあやまりもせず「T子さんに今どっちか選んでもらいましょう」とついさっきまで、汚いせまい男の部屋で一緒にいたT子に私かHかを選べというのです。それが彼女の意思を尊重して一番公平な事なのだという風に・・・・

★勝負は見えていました。私の負けは分かっていました。卑怯な男だなと思いました。必ず自分が勝てる処でしか戦いを仕掛けてこない卑劣な男です。後にこの男は小説家になり芥川賞を取り、主に貧しく弱い人々のいかにも味方のようなルポを書いたりしましたが、私は一切彼の書くものを信用していません。

★案の定T子は「この人と一緒に居たいの」と泣きながら言うのです。そして余計な事に「あなたはいい人よ」と付け加えるのです。

★この状況で「いい人」という言葉がどれだけ私を傷つけるのか?この状況で流す涙が、どれほどこちらの心を折れさせるのかという想像力が女の人にはないのでしょうか?いいえ、彼女にはなかったのです。

★「わかった」と言って預かっていた現金封筒の袋を彼女に渡し、私は喫茶店を出ました。

★早稲田のグランド坂に四月の雨が降っていました。高田馬場に歩く私の頬に伝うのが雨なのか、それとも涙なのか、さっぱりわからないわたしでした。

★こうして、たった1年あまりの間に2度の裏切りを受けた私は、彼女との生活を終わらせたのです。以来5年程私は女性を一切信じることが出来ませんでした。女の人のどんな笑顔の裏にも恐ろしい嘘が隠されているように思えて仕方がなかったのです。

★それでも、そうした絶望的状況を救ってくれたのは芝居でした。文字通り、「焼けたトタン屋根の上の猫」のようにひりひりしながらも、なんとか6月の公演に向けて、演出をする私でした。

★その俳優陣の中には有名な当時の与党幹事長の娘や、後に映画監督になるHとか後に有名な俳優になるMなどが居ました。

★芝居事体は難しい大人の世界を見事に描いた舞台になったと思います。当時、エリザベス・テイラーとポールニューマンが同名の映画で主演していた作品の舞台でした。

★そしてまた私は新劇団自由舞台の役者としても舞台に立っていたのです。

★小生21歳の春でした。

★本日これまで。お休みベイビー!また明日。

theme : 小さな できごと
genre : 日記

私と演劇16

蛍稽古15

★写真は「蛍よ妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★私と演劇「16 修羅の日々」

★さて、先輩に借りたお金で仙台行の夜行寝台列車に乗り、翌朝仙台へ着いた小生でした。

★既にKは東京へ帰った後で、勿論半年ほど前にT子の両親に頭を下げ「結婚を前提に付き合わせてください」と私が挨拶していた以上、T子が半年後に別の男Kを実家に連れて行くのは流石にはばかられたのだと思います。

★どこかに泊まらせ、松島等を案内して、Kを東京に帰らせたのだと思います。

★事情を知らない、T子の両親は小生を大歓迎し、暫く泊まっていきなさいと言いました。

★仕方なしに、呉服屋とたばこ屋をやっていた彼女の店の手伝いをしたりして数日過ごしました。

★T子は小生に太宰治の人間失格の文庫本を差し出して、これを読んで御覧なさい等と言う始末です。

★数日後、私は彼女の実家に別れを告げ、東北本線の白石という駅で、1泊し、彼女と待ち合わせて、一緒の汽車で東京に帰えることにしたのでした。

★白石から一人タクシーに乗り、山の中の温泉に行きました。その時すでに私はボロボロに傷ついていて、情けない話「死のうか」とか、「死んだ方がましだ」と考えていました。

★何で手に入れていたのか、小さな薬瓶にいっぱいの睡眠薬を持っていました。瓶の中の薬を全部一度に飲めば苦しいだろうが死ねると思ってもいました。

★ところが、若い男の一人客で、なんとなく様子がおかしいとわかったのか、温泉宿では、男の番頭さんがぴったりと私について、お酌をしたり、飯を食べるのを世間話をしながらずっと見守っているのです。

★いささか酒に酔ったこともあり、その夜は薬を飲むきっかけを逃してしまいました。

★あまり眠られず、翌朝、山の川の河原へ出て、山に囲まれた水の流れをじっと見ていると、自分の小ささや、愚かさがしきりと思えるような気になりました。

★大自然のきりもない営みに比べたら、人間社会の裏切られた等という事が如何にちっぽけな事かと思えてきたのです。

★私は何もかも許し、また新しく生活しようと思えて、自死の道は止めました。

★その日の昼過ぎ、彼女が仙台から乗って来た列車に白石で乗り込みました。しかし、なんとなくそのまま、東京に帰るのはしゃくでならなかったので、埼玉県の上尾という駅で彼女を私は下しました。そして、タクシーですこし離れた旅館に泊まることにしたのです。

★本当にそこには爛れたような鬱屈した感情しかありませんでした。私は愛もなく、ただ獣のように彼女を抱いたのだと思います。

★翌日東京に帰り、別れれば正解だったのでしょうが、また同じように同棲生活を続けたのです。

★しかし、もう同じような生活は戻りません。ちょっとした喧嘩になれば、すぐ彼女を私はののしり、彼女は別れると言って叫び私はますます眠れなくなり、ノイローゼ状態になってしまいました。

★彼女の眼の前で遮断機の下りて電車の来ている踏切へ私は突っ込もうとしたり、新宿の人が群れる雑踏で私は倒れこんでしまったり、挙句の果ては彼女に暴力をふるうというような、修羅のような地獄の日々が約半年続いたのです。

★それは壮絶な日々でした。彼女が薬を飲んだと言って狂言自殺をしたこともありました。

★色々あって半年後、アルバイトに出た先で熱心に通ってくる変な学生から、ラブレターを渡されたと笑いながら見せました。今でいうストーカーのような奴で初めは確かに彼女は気味悪がっていたのです。

★ある雨の日、私と彼女が歩いていたら、待ち伏せしていたその男が横合いから彼女の手を取りそうにして「何だこの野郎!」と追い払ったこともあります。

★ただ女心は分からないのですが、ある日彼女は仙台から両親がやって来るので、同棲が分かるとまずい。ついては私にしばらく東村山の実家に帰っていてくれないかと言い出したのです。

★信じやすい私はそのまま信じて、暫く実家へ戻り、その頃「こだま」で春の公演のテネシー・ウィリヤムズの「焼けたトタン屋根の上の猫」という芝居の稽古の演出に入っていました。

★その公演でT子は主役の役をやりたがっていましたが、周囲の状況も含めて、そういう公私混同だけはしたくないので、彼女には裏に回ってほしいと言っていました。

★今となってはどちらが正しいのかわかりませんが、ある朝、彼女の頼みを私は「分かった」と言ったのに嘘をついて役に附けなかったと言い出しました。私は言うはずもないのにと思ったけれど、彼女も追い込まれていたのかもしれません。

★ある日実家から送られてきた彼女の授業料の現金封筒がどういういきさつか、私の処に来たのです。それを知った彼女が、二人で入ったこともない喫茶店のレジにその現金封筒を預けておいてくれと稽古場へ人を介して連絡してきたのです。

★私は流石に怪しいと思い、その日喫茶店のレジが見える2階席で張り込むことにしました。

★その午後、髪をすっかり短く切った彼女が見たこともない白いセーターを着て1階のレジに姿を現したのです。

★本日これまで。おやすみベィビー!また明日。

theme : なんとなく書きたいこと。。
genre : 日記

私と演劇15

蛍稽古14

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の稽古風景です。

★私と演劇 「15 芝居の後に・・・」

★何とか好評のうちに終り、黒字も生み出したJPサルトル作の「汚れた手」の公演が終わりました。

★実を言うと小生、その頃ある女の子と同棲していました。

★今と違って同棲がある程度公認されていた時代ではなかったので、ひっそりと、例えば住む場所も、私鉄と私鉄の間のバスに乗らなければたどり着かないような、少し友達が訪ねてきにくい処を住処としていました。

★勿論相手の親には内緒でしたが、結婚を前提に付き合いますとちゃんと彼女の親にも挨拶をして、そのつもりでありました。

★私が演出し彼女が「汚れた手」に出演していて、勿論みんなは多分吾々が付き合っているという事は知っていたと思います。ただ同棲してるとは思っていなかったのです。

★公演が終わって、彼女が主役のK君を好きになり、相思相愛となってしまったのでした。

★うかつにもそれを知らない小生はある日、小生の芝居とは関係のない男友達が泊まりに来ることになりました。

★その時、彼女がわたしは良く知らないおとこの人だから、今日は女友達の処へ泊まりに行くと言い出しました。

★何の疑いもなく、高田の馬場の駅まで送っていった小生。にこっと笑って手を振って山手線で池袋方面に行く彼女。でも後でわかったのですが、その夜彼女は池袋でK君と待ち合わせて、ホテルへ行ってしまったのです。

★まだ携帯などまったくない頃の話です。

★翌日家に泊まった友を送って、彼女がお世話になっているはずの女友達に電話をしました。「いいえ、Tちゃんはここ半年程家に泊まりには来ていませんよ」との返事。

★目の前が真っ暗になったのを感じました。

★やがて会った彼女を問い詰めると、彼女は「実はしばらく前から・・・・」と白状しました。私はK君とT子と3人で会って話しをしました。

★K君は小生と彼女が同棲していたことも知っていたのですが、あやまりもせず、ケロッとして「僕は遊びですから手を引きますよ」と言い放ったのです。

★彼は後輩でもあり、主役に抜擢してやったというこちらの思いもあったので、激怒しました。でも激怒してそのまま許し終わらせようとしたのです。

★でもそれから1週間もしないうちに、彼らは手に手を取って彼女の故郷仙台へ行ってしまったのです。

★私は、もう気力もなく怒る気もしないような状態で闇の底にたたずんでいるようでした。。

★その時九州男児の先輩が「お前そんなことされてもまだ彼女が好きなんか?」と私に聞きました。「好きです」と私。

★すると先輩は、リクルート用のスーツを質屋に持って行き、お金を造ってくれて、「この金で仙台へ行って女を取り戻してこい」と言ったのです。

★私は泣きながら、切符を買い、寝台車で仙台に向かったのです。

★今思うとそんな状況に関わらずある意味、何もかもが温かくゆるくいい時代だったと思います。

★本日これまで。おやすみベィビー!また明日。

theme : ひとりごとのようなもの
genre : 日記

私と演劇14

蛍演出光景10

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」での演出風景です。

★私と演劇 「10 80人の部員」

★さて早稲田の4年になりと言っても実質改めて再入学したので3年なのですが、激戦のレパートリー選出をチェホフの「桜の園」を押すメンバーに僅差で勝って、わたしはサルトルの「汚れた手」を演出することになりました。

★この時は正式には鈴木忠志の主宰する新劇団自由舞台のメンバーだったので、おそるおそる鈴木忠志に劇団こだまで演出をやらせてもらえないだろうかと相談した。彼は「高谷君が色々やって大きくなって戻ってくればいいのだから」と快くしばしの休みをくれた。

★その頃レパートリーの争奪戦も劇団員の選挙で決まるので、まるでどこかの市議会議員の選挙のように激しく票の取り合いをしたり、こちらに票を入れると約束した者が裏切って、あちらに票を入れたりと大変な学生らしからぬ状態が繰り広げられていた。

★しかもお手伝いに頼んだ実践女子大学の生徒も入れて、全部で劇団こだまは80名近くの部員が居たのである。

★公演は公演3役がほとんどすべてを取り仕切っていく構造になっていた。チェホフ側であった例の制作力の有るA君を制作にして、舞台監督は後輩の後に映画監督となるHに頼んだ。

★サルトルは当時膨大な実存主義の本を出していた。学生演劇の悪いところはテーマ主義でこの「汚れた手」に限らず公演の稽古中に3回程のテーマ討論会という会合がある。

★演出はそこで劇団員からのあらゆるサルトルの質問に答え、この劇がどういうテーマで上演されなければならないかを説得しなければならなかった。

★サルトルをそれほど勉強していた訳ではなかったので、私は本当に焦った。特にチェホフで敗れた側の部員は、サルトルの本の色々なところを引用し、「この本のここで、サルトルはこう言っているが、それに対して、演出はどう考えるか」等と迫ってくる。

★まるでちょっとした国会の予算委員会のようである。それらをかいくぐり、デモか稽古かという二択の嵐の中で、「料金を取って芝居をやる以上、デモよりも今は稽古だろう。作品を舞台化して、われわれは何かを主張していかねばならない」等との議論に明け暮れた。

★キャスティングも演出に一応の権限があるが、外野からのプレッシャーは半端ではない。こっちが票読みして明らかにチェホフに1票入れた者が「よかったねー、俺も一票入れたんだよ」等と嘘を言っていい役を取りたいためにすり寄ってくる。

★これらの稽古の過程で私はほとんど後の人生につながる、人間の醜さや、調子の良さ、裏切りというものを学んだ。

★主役は後に有名なニュースキャスターになるKを抜擢した。反対は多かったが、彼の持つノンポリなぼんぼん風の処が主人公にぴったりだったからである。

★こうして、なんとか6月の舞台が幕を開けた。切符は売れ、大隈講堂は満員だった。本番中にセットの階段が突如崩れ落ちたという失態があったが、なんとか公演は成功裏に終わった。

★あんなに隆盛を誇っていた自由舞台は鈴木忠志という天才が抜けたことによって、テネシー・ウィリアムズの「ガラスの動物園」という4人しか出演しない芝居をやるのが精いっぱいだった。劇研も陥没していた。

★ある意味で、{「こだま」に革命を!}と1年の時願っていた夢は達成したかに見えたしかし・・・・公演が終わった後に様々なつけが襲い掛かったのである。

★本日これまで。おやすみベィビーまた明日。

theme : 伝えたいこと・残しておきたいこと
genre : 日記

私と演劇番外編1

蛍演出光景9

★写真は、「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の演出風景です。

★さて、本日は大学1年~2年の春休みに行った早稲田の第二文学部演劇科の地方公演についてお話しします。

★春休みを利用して同級生の関口さんの親せきのいる長野県の妻籠へ芝居を一本持って行くことになりました。

★演目はプリーストーリーの「夜の来訪者」という割合有名な作品でした。

★小生は装置プランと大道具のチーフを引き受け、演出助手も買って出ました。

★公演の2週間前、長野県の妻籠に先乗りして、装置のパネルを造りました。

★山の材木屋さんから木を切ってもらい、買ってきてパネルを造りました。

★真新しい小割や垂木でパネルを約一週間でつくり、勇んで帰ってきたものでした。

★ところが、5日程前に妻籠に全員で入ると、なんとパネルが皆反ってしまっていたのです。

★なぜなら、生木に近い新鮮な木材を買ってきて、造ったために木が水を含んでいて、日をおいて木が乾いて来て全部反ってしまったのです。

★さあ、それからが大変でした。装置は全部作り直しです。徹夜に徹夜を重ね新しく木を切り、叩き作り直すのです。

★皆バテテしまい、中には釘を片手で持ち、トンカチをふりあげ正に釘を打ちつけながらそのまま眠ってしまうという始末です。

★チーフとしては何とか間に合わせなければなりません。怒鳴りつけ励ましてなんとか装置が出来上がりました。

★ところが役者を兼ねていた大道具の者は疲弊してしまい、体力を使い果たしてしまったのです。

★本番当日セットをやっと建込み、足を少しすりむいて、女の子に包帯を巻いてもらい控室でほっとしていた処に舞監をやっていたOが飛んできました。「おい高谷、刑事の役をやってくれ!」「刑事?」何を言っているのかわかりません。だって刑事は主役で1時間半の芝居で出ずっぱりの役なのです。

★「何を言ってるんだ!」「刑事役のTが倒れたんだ」「何?」「大腸カタルだ!」

★それはとんでもない事でした。小生は刑事の役は演出助手だったので、主役のTがなんかの都合で稽古を休んだ時に代役で2度ほど台本を手に持って稽古をしただけだったのです。

★不幸中の幸いという事がありました。役が刑事で、幸せな家庭の父と母息子と娘のいる四人家族の家にやってきて、一人の女が死んで、その犯人かもしれない4人を追及して、炙り出すという芝居だったのです。

★私は警察手帳の代わりに台本を黒い表紙の紙ばさみで挟み、尋問しながら、なにやら書き込むふりをして、次のセリフを読み、「成程、その時あなたはあの場所にはいなかったのですね」等と喋っていくことが出来たのです。

★もしこの芝居以外でしたら、ぶっつけ本番で、主役をやるなどということは出来なかったでしょう。

★その時私は初めて、脂汗というものが脇の下から滴り落ちるという体験をしました。

★芝居が終わって、主役が倒れたことと代役だったという事をお客様にわびました。

★でも、誰一人私が今日初めて、セリフをしゃべったとは思っていなくて、大拍手をいただきました。

★そして、その日は別の公民館に移動して、夜の公演をやることになっていました。

★するとどうでしょう。火事場の馬鹿力とはよく言ったもので、私に奇跡が起こったのです。

★夜の公演では、本当にセリフ覚えの悪かった(私には、セリフ覚えが悪すぎて役者を諦めたという説もあります)この私がほとんど3分の2程のセリフが頭の中に入っていたのです。

★夜の公演は、時々台本から目を離しながら、堂々と刑事の役を演じることが出来ました。

★この時の公演は主役のT君を含めて大道具を叩いた仲間3人が大腸カタルで倒れたのでした。

★しかし、この公演は奇跡のように無事勤め上げ、地元の青年団(といってもほとんどが中年が老年の方でしたが)の方の大絶賛の打ち上げで、したたかに酒を飲んだのを覚えています。

★その時は酒のあまり強くない小生が最後まで、もう一人のF君と強い地元の人と酌み交わしたのを覚えています。

★体重こそ、47.5キロでしたが、マラソンランナーの如くタフで、当時痩せてはいても誰にも体力では負けていませんでした。

★まだ私が二十歳になる前の年のことです。

★本日これまで。お休みベィビー!また明日。

theme : 伝えたいこと・残しておきたいこと
genre : 日記

私と演劇13

蛍演出光景8

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の演出風景です。

★私と演劇「13 セリフを飛ばして」

★さて、京大の寮に泊まり、京都の八坂会館で上演された、別役 実作・鈴木忠志演出の「象」新劇団自由舞台再演で私は男2という役をもらいました。相手役は役者が足りず鈴木忠志が男1をやることになりました。

★別役さんの芝居は微妙な繰り返しがあり、それが持ち味でもあり、一つの特徴でもあります。

★男1「おはよう」
男2「おはよう」
男1「いいお天気ですね」
男2「そうです。いいお天気です」
男1「空が青い」
男2「そうです空が青い」と繰り返しながら微妙にセリフがずれていくのです。

★私はその時極度に上がっていたため、登場してセリフを始めたトタン何故か台本の約1ページ分のセリフを飛ばしてしまったのです。色々の会話があり、約3分後くらいに男1のステッキが振り下ろされ、男2が倒れて、担架で運ばれるのですが、セリフを飛ばしたために、仕方なく男1の鈴木忠志は早々にステッキを私に打ち下ろしたのです。

★そのため、私と男1は約15秒か20秒で舞台から引っ込まざるを得なくなったのです。

★私は当時唯一の新人で、舞台袖で担架から降ろされたとたん本当に落ち込んでしまいました。

★舞台は慌しく終わってしまい、京大の寮へ夜引き返してきたときに「申し訳ありません」と演出の鈴木忠志に改めて謝りました。

★「馬鹿野郎!何を考えてるんだ!」という言葉が返ってくると思っていました。すると案に相違して「いいんだ、気にするな高谷君、ああいうことはあるんだ」と逆に慰められてしまったのです。

★日頃役者の日常のあり方などについて、怒鳴りまくっている鈴木忠志からはめったに聞けないような優しい言葉でした。

★そのため、かえってその時、セリフをとちったという傷は深く小生の心に残ってしまったのです。

★そんな新劇団自由舞台の役者生活から翌年4年となり、劇団こだまも体制が入れ替わりました。再び私は「こだま」に復帰しJPサルトルの「汚れた手」をレパートリーとして押し、見事に票を勝ち取って演出することが出来るようになりました。

★大学の演劇科はほとんど授業にもいかず、授業料も滞納しひどい状態でした。

★アルバイトだけは様々な職種を猛烈な勢いでやったのを覚えています。

★農林水産省の地下の食器運び・帝国秘密探偵社の帝国紳士録という百科事典のように厚い本の会社への配布。バーテンダー。集英社の「リボン」という雑誌の漫画の原稿取り等様々です。

★そうして、一旦除籍になった早稲田の籍を滞納分と入学金の半分を払い3年に復帰したのです。しかしそれでも授業には出ませんでした。

★それほど学生演劇が面白かったのです。

★本日これまで。おやすみベィビー!また明日。

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私と演劇12

蛍演出光景7

★写真は「蛍よ・・・妖しの海を翔べ」の演出中の風景です。

★私と演劇「12 鈴木忠志・別役実との出会い」

★さて、「マリアの首」の演出は好評の裡に終ったのですが、どの組織にもいる穏健派がごく一部の劇団こだまに革命をという我々急進派を蹴落とすような雰囲気になりました。

★「マリアの首」の合評会の後、私はいったん「劇団こだま」を離れました。

★その頃「こだま」の先輩で後に東宝系映画のATGの社長になる佐々木史朗(その頃の名は正路)さんに相談し、学生劇団の自由舞台を卒業した面々で造った、新劇団自由舞台に役者として入れてもらいました。

★これは後の早稲田小劇場になる劇団です。

★まだ別役実さんの処女作「象」が世に出る前のことです。

★鈴木忠志は「象」とテネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」を大隈講堂で上演し、その秋に新宿の厚生年金小ホールでサルトルの「蠅」を上演したりしていました。

★演出方法はスタニスラフスキーの方法にのっとり、どちらかというと群衆を使ったスペクタル劇の演出が得意のようにも思えました。

★後の白石 加代子さんの演技の礎となる亡くなった小野 碩さんや後に四季で一世を風靡し、これも亡くなった池田 鴻さん等を含め8名程が居ました。その中で最年少の異例の現役大学生として新劇団自由舞台に所属したのでした。

★最初の舞台は「欲望という名の電車」のパブロ・ゴンザレスという役だったと思います。それとも大隈講堂での「象」の男2の役だったかもしれません。その当時の記憶があいまいです。

★「象」は俳優座劇場でも1週間ほど上演し、それが前なのか、後なのかがわかりません。

★俳優座の方は参加していなかったので、そっちが先の可能性が高いと思います。

★「欲望という名の電車」ではスタンレー役をやった小野さんの演技に圧倒されました。小生の短い役者期間でしたが、その間、あれほどの剛速球を相手役に投げかけてくる役者は小野さんのみでした。

★何かセリフを交わす。相手から返ってくるセリフがこちらで受け止められず、まるでセリフを交わせないような迫力でした。私が何とか言い返すのですが、相手に投げかけるセリフになっていないのを感じるばかりでした。

★その年の秋京都の八坂会館で「象」の再演という事になり、役者が足りなくて、私の相手役の男1を演出く鈴木忠志がやることになるのですが、ここで私は大失敗をしでかすのです。

★その話はまた明日。

★おやすみベィビー!また明日。

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プロフィール

G.C(グランド・キャノニオン)

Author:G.C(グランド・キャノニオン)
G.Cことグランド・キャニオン・ビリーブ・ミーこと高貴な谷、つまり 高谷信之のこれはブログです。

G.C(ジードットシー)はラジオドラマ80本書き、映画、テレビのシナリオを手掛ける。
また劇団ギルドの代表でもあり、劇団の運営、限りない創造に賭けており、また放送作家協会の理事でもある。
他にシナリオの書き方講師等もしている。

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