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おめでとうは言えなくて。

年賀富士CZ

★これはベランダから見る、富士山夕景の拡大写真です。

★さて、松の内も過ぎてしまい、本来なら年賀のご挨拶を申し上げるのですが、2004年元旦に起きた能登半島をはじめとした災害に呆然として新年のご挨拶も言えない有様です。

★どれほどの心配をしたとしても、どれだけ心を痛めたとしても、何も出来ないもどかしさ。ただ祈るばかりの虚しさの中で、何と言って新年の祝詞をしたらいいのかと戸惑い、どうにもならないことを知ったのでした。

★本当にささやかに義援金を出して、被災した方々の、悲しみ苦しみがほんの少しでもなくなるよう、祈るしかない虚しさを、東北の3、11と同様、感じるばかりの無力さに心が落ち込みます。

★例年、青山墓地に年末に墓参りに訪れるのですが、今年はタイに住む甥の帰国の都合で、明けて1月の3日に、我々夫婦と次男の夫婦とその甥とで、先祖と父母、そして亡くなった妹の墓に参りました。

★よく晴れて、久しぶりの大人数での墓参りになりました。

★合わせて、震災で亡くなった方々の御冥福と、未だ行方不明の方々のご無事を合わせて祈りました。

★能登半島の珠洲や輪島は、自身の過去の疎開した地や、幼少の頃住んでいた処以外では、旅行嫌いの家人と唯一と言っていいほど旅した地でもあります。、小生は2回目でしたが、初めての家人は思い出に残る素敵な土地でした。

★それだけにあそこにいた親切な本当に良い方々が、突然の災難と恐怖に引き裂かれたのかと思うと、本当に耐えられません。

★落ち着いたら、若ければ何を置いても駆けつけてお手伝いをと思っても、そこら中に病を負った、後2か月で81才の身ではなにを悔やんでも、何も出来ません。

★もう何回も書きましたが、畳が擦り切れて藁になり果て、床下の板の隙間から凩が吹きあげて眠れなかった幼少期の事を思うにつけ、避難所での苛酷な日々は、いかばかりかと想像するばかりです。

★暖房にあたり、加湿器のある中でお餅を食べている身で、何をかいわんやですが、『生きてください!。生き抜いてください』

★それしか言えません。

★81才今年もなんとか生き抜くつもりです。書き残したことは沢山あるので、ただ書くのみです。

★本当に筆不精で書くのが苦手だった小生、70代の終わりに体力も無くなって・・・・・・

★「書き残さねば、あれも、これも」と痛切に思い始めた愚か者です。

★ま、その事は悔やんではいませんが。

★それではまた。

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theme : いま想うこと
genre : 日記

いきなり秋が朽ちて

山頭火終息の一草庵
★写真は10月15日に行われた「風に吹かれて山頭火」公演、四国松山の一草庵の会場です。

★写真ではまだ開演の30分以上前なので、あまり雰囲気が出ていませんが、後方の柿の木と左の上の空に月が出て、あたりが暗くなった中で中央の平台の上を中心に、浅間道春さん主演の、拙作「風に吹かれて山頭火」の公演がたった一回限りで行われました。

★自分でかかわったから言うのではないけれど、暗闇の中にライトがあたり、黒い法衣のようなものをまとった山頭火が現れると、「あゝ、これこそが芝居の原風景だ」と言うような雰囲気になり、胸の辺りがゾゾっとしました。

★客席は80席くらい。ボブ・ディランが出てきたり、エ.ル..ビス・プレスリーの歌が流れたりと例によってわけのわからない小生の世界を浅間さんは自分のものにして、山頭火を演じ切っていました。

★彼にとっては30何年ぶりの舞台だそうですが、そんな心配は文字通りどこ吹く風、役者はやはりうまい下手という事もさることながら、その人の人生における経験値と言うか存在感そのものが、いかに大切かという事を目の当たりにしたのであります。

★山頭火のファンの方からは「こんなんじゃない」とか「よくわからん」との思いも沢山あったかと思いますが、東京から駆けつけてくれた人達十数人、(これは浅間さんの人徳でもあります)も含めて、大変な拍手の内に約1時間弱の芝居は終わりました。

★地元の方々やプロデュースをしてくれた大平さん兵頭さんをはじめとした「公益財団法人松山市シルバー人材センター」の皆さん「。NPO法人まつやま山頭火倶楽部」の皆さんの温かい支援のおかげで、何とか上演がかないました。本当に感謝の気持ちがいっぱいです。

★ただ、芝居の一過せいの宿命とはいえ、たった1回で終わってしまうのは誠に残念と思えて仕方がありません。

★東京の心と金のあるプロデューサー誰か、仕掛けてくれませんかね、この芝居。

★もう少し小生若ければとか、「劇団ギルド」が解散していなければと思うのは念の残るばかりの事です。

★さて、もう一泊松山で過ごして、翌々日は運悪く大嵐、松山からバスで高松へ出て、高松の駅で、5時間程たちんぼて待たされて、思わず上の写真にあるような「折り畳みパイプイス」とかせめて、整理券を渡すとかの災害における駅の知恵と備えがない事に驚いて「、東京の小劇場の入場者への配慮を学んだら・・・・・・」と言い・・・・・・

★勿論そんなことはいいませんが、駅員に別の言い方のクレームをつけてしまいました。

★だって「復旧の見通しは立ちません」、「4時間遅れる」などと言いながら、時間前にいきなり改札口を開けて、ホームに人をなだれ込ませたり、災害に対する対応がまるでできていないのには驚きました。

★愛媛松山の人のやさしさに振れたばかりなのに、高松!!頑張れよ。鉄道が本当に大切なのは災害の時の対応なんだよ。と言いたくなったのです。でも、駅員さんは本当に頑張っていましたけれどね。

★これが今年一月前の話です。

★実は今年の夏も松山に稽古を見に行ったのですが、その後寄った京都で小生にとっては本当に大切な時が訪れたのですが、長くなるので、その話は又。

★それにしても今年の秋は何処へ吹き飛んでいってしまったのか?

★劇団四季は嫌いだけれど、夏もしくは冬の二季はたまらんぜ。

★シェガナベィビー! また気が向いたら。

theme : 今日のつぶやき
genre : 日記

相米慎二との日々#4

赤い梅

★近所の公園の梅です。2月2日に撮影。

★さて、「ションベンライダ―」という映画の続きです。食堂の通行人の撮影が終わり、その日熱海まで移動して、公民館のようなところで「寄合い」(古い言葉だねー)のシーンを、また別の役所の職員の役で参加する予定だったのですが、やはり予定は伸びて、熱海に泊まりとなり、翌日の撮影という事になりました。

★それ程多くの撮影に参加したのではありませんが、通常監督はキャメラの横のディレクターズチェヤーに腰かけて、カメラをのぞいたり、カメラマンと打ち合わせをしたり、時にはカメラマンと撮り方についてのやり取り等で、撮影が押したりするのですが、相米監督の場合は、ほとんどそういうことはありませんでした。

★撮影がストップする時は必ずと言っていい程、役者へのダメ出しと演技指導で、近くの蕎麦屋や喫茶店などに少年たちをよんでの話合いがとてつもなく長くなり、撮影が押すのです。

★ですから、その為予定はどんどん伸びて、熱海の撮りが翌日に延びたりします。

★なんで撮影が延びているか一部わからないスタッフは、待機の長さにじれてきて「おい、何待ちなんだよ、いったい」等と助監督に詰め寄ったりします。

★ですが、承知している助監督たちは、古いスタッフをなだめて、長い待機時間をなんとか持たせていくのです。

★この映画は殊更少年少女が主役の映画でもあったので、こういった光景が多くみられました。

★勿論あの有名な長回しの段取りはカメラマンの田村正毅さんや伊藤昭裕さんとあらかじめじっくりと打ち合わせしてあったのだと思いますが、撮影が始まると、監督は本当に長時間役者と納得がいくまで話し合います。

★こういうタイプの監督にはあまりお目にかからなかったと思います。

ションベンライダ―脚本

★写真は当時の台本です。この脚本をぱらぱらとめくって気が付いたのは、ジョジョ役(長瀬 正敏)のセリフの所に、処々横棒が引かれていて、カタカナでアク・アクと小生の字で書かれたところがありました。

★記憶に薄れてしまっていてあまり覚えていないのですが、多分アクセントのチェックを監督から頼まれてセリフの横に、記入していたのではないかと思われます。

★撮影に入る前の演技のための特訓と、まるで芝居の読み合わせのように丹念に台本の読み合わせをやっていたように記憶しています。

★その時の藤 竜也さんのウィスパーに近いぼそぼそという言い方と、突然どなりだす強弱の付け方、リズミカルなしゃべり方には感嘆させられたものです。

★さて、その途中の昼休みだったと思います。相米監督とプロデューサーの方と小生3人で食事をしていた時のことです。     相米監督がふとこんなことを言いました。「ねえ、高谷さん、書き直しのために、破り捨てた原稿用紙を惜しむような作家は駄目だよなあ」「まあ、そうですね」と小生。

★何のことかわからずそう答えると、監督は「同じようにさ、NGになったフィルムを惜しむような監督はろくなもんじゃないよね」その時、本当に苦虫を食いつぶしたように顔をしかめていたプロデューサーの顔は、今でもはつきりと目に浮かびます。

★スケジュールの延長といい、長回しによる予定以上にオーバーするフィルムの量は、半端なかったのだと思います。

★そのため、分かってはいても、製作者としては次々に起こる予算オーバーについては、きっと我慢ならなかったのだと思います。

★それでも、相米監督の予算超過やスケジュールオーパと、とことん戦い、自分の納得のいく映画を撮り続けていた姿に、小生は圧倒されました。

★日活の助監督時代の我々の劇団「八騎人(ハッキジン)」の稽古場に遊びに来たり、麻雀をしたりしていた相米とは全く別の、名監督相米慎二を目の当たりにしていたのです。

★「英雄色を好む」ということはご多分に漏れず色々ありましたが、ここには書けません。

★小生が一番好きな作品は「魚影の群れ」です。緒方 拳さん夏目雅子さん佐藤浩市さんも素敵でした。

★そしてDVDをもっていたても、未だに、中々観ることが出来ないのは遺作になった「風花」です。

★これも大好きな小泉今日子さんが出ているのに、なぜか未だ観ることが出来ません。

★あまり引っ張っていると、こっちの寿命がなくなってしまうのに、春が来たら、心を決めて「風花」を観ようと思っています。

★それにしても、あんなに若く才能を散らしてしまった、相米慎二という大監督を今でも小生は悔やんでいます。

★あれから40年、「ションベン・ライダ-」この頃、まだ小生38歳の若造でした。相米監督も33才でした。「青春、青春、青春また来たらず」―これ本当にあのゲーテが言った言葉なのかい?

★本日これまで、お休みベィビーまた気が向いたら。



theme : 伝えたいこと・残しておきたいこと
genre : 日記

相米慎二との日々#3

多摩湖から望む富士の夕景

★写真は2022年1月末、多摩湖から望む富士山の夕景です。

★無事に演技指導が終わり、相米監督の「ションベン・ライダ―」が撮影に入ったのは1982年の夏だった。

★本棚をひっくり返して、出てきた、西岡琢也・チエコ・シュレイダーさんの脚本「ションベン・ライダ―」の中に挟まれていた、スケジュール表によれば、撮影に小生と、最初に仲間と造った劇団八騎人(ハッキジン)の女優、麻倉淳子が撮影に呼ばれたのは、1982年のお盆の前後だったと思う。

★というのは、残っているスケジュール表と撮影したシーンがかなりズレていて、予定通りに撮影は進んだとは、とうてい思えないからである。

★その真夏のカンカン照りの日、横浜の運河べりの道で、昼頃、麻倉がたしか花嫁衣装で主人公の少年たちとすれ違うシーンを撮った。

★そして午後、近くの食堂を借り切ってロケが行われた。小生の出番である。

★原日出子さんと、たしかジョジヨ役の長瀬正敏・ブルース-リー役の河合美智子・辞書役の坂上忍が話をしている食堂の中から引き戸越しに見える往来に、大きな床屋の、青と赤のぐるぐる回るガラスの丸い看板が据えられていた。

★ちなみにあの青と白のぐるぐる回る看板は、昔は医者が散髪もやっていたので、静脈の青と動脈の赤を象徴しているという説もある。

★道路に置かれた看板がなんと、シュールにも、敷かれたレールの上を、ゆっくり右に移動したり、また左へ平衡に移動したりしているのである。

★その丸いガラスの看板の所に差し掛かった、片足にギブスをして、松葉杖をついた痩せた男(当時は小生47.5キロのガリガリだった)が、その動く看板につられて左へ行ったりまた戻ったりというのが、小生に与えられた役だった。

★勿論食堂の一番奥にカメラは据えてあり、開けっ放しにされた食堂の外の遠景だから、フィルムに映っているかさえ定かではない。

★まして、撮るには撮ったが、結果的にカットなどというシーンは、映画の世界では山ほどあることなのである。

★だが小生はそれなりにプランを立て、ヨーイ、スタートの声がかかる直前まで、用意した水を大量に飲んだ。(勿論あの時代ペットボトルの自販機等ない時代だった。)

★どうやって水を用意したのかはわからないが、自分で用意して、がぶがぶ飲んだ。看板に近づいてきたマツバ杖のどうでもいい通行人は、目をぎょろつかせ滴る汗をぬぐおうともせず、息荒く行ったり来たりした。

★勿論多少うなっても、マイクは食堂の中セリフを捉えているから、主人公たちの芝居の邪魔にはならない。

★ただ、映っているかどうかという問題なのだった。

★何回かの取り直しのあと、本番が終わり、助監督が寄ってきて、「大丈夫ですよ、ここはカットされません」と小声で囁いた「えっ、どうして?」と小生。

★「あのレール付きの床屋の看板、監督の希望で、あれだけで100万円かかって作ったんですから」
「100万?」と小生。

★「カットできないんですよ、プロデューサーの手前。だからタカヤさんきっと映ってます」

★なるほど助監督の言うとおり、DVDになっても、食堂越しに左右に汗みどろになって移動する、小生の姿は残っていた。

★それと、嬉しかったのは、たまたま出番はなかったのだが、そのシーンを見ていた藤 竜也さんが、通行人の台本に名前も載らない役の小生をねぎらって、終わって着替え中のロケバスのステップの所までやって来て、片足をかけ身を乗り出して、私に「お疲れさまでした」と大声で言ってくださったことだ。

★多分狂気のように汗だくで演じるガヤの芝居に、何か感じてくださったのだと思う。藤 竜也さんの大ファンでもあった私には、とてつもない感激の一瞬であった。

★相米監督も後で近寄ってきて、にやにやしながら「なんかやってたねー」とからかうように小生に呟いた。

★さて、寄り道ばかりして、相米監督の撮影のすごさやエピソードに中々至らない。これらの話は決して自慢話ではありません。
誤解なきように。

★若くして亡くなった偉大な監督と、小生の一瞬のすれ違った日々を書いたものです。

★次回は相米監督の撮影術など、小生の感じたことの本論に迫りたいと思います。

★長くなったので、本日これまで。お休みベィビー、また気が向いたら。

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genre : 日記

相米慎二との日々#2

2022・1月9日富士川から見る富士

★写真は富士川の鉄橋から見た富士山2022年1月9日

★PCR検査を受け(有効期間3日間で、この日9日まで陰性)久々に静岡に行き、8日静高演劇部の同窓会と9日は親友Aの墓参りをして、帰京しました。

★静岡では、この新幹線から見る富士山と、昔私たち一家が居候して住んでいた、あの天女が舞い降りた、三保の松原から見る富士が最高だそうです。

★さて、前回の続き、相米慎二監督の「ションベン・ライダー」の撮影前、約1週間か10日(日記を書いていないのではっきりしない。)助監督の矢野さんを通じて相米監督に頼まれて、出演者の少年少女達の撮影前の演技特訓を小生が日活撮影所で行いました。

★もう、当人たちは覚えていないでしょうが、長瀬 正敏・坂上忍・河合美智子(当時はまだ鈴木と言っていた)ともう一人の鈴木吉和の4人でした。

★長瀬はと河合はオーディションで選ばれたと思う。坂上もそうかな?

★長瀬はオーディションに受かり、なんの経験もなく、九州からこの映画のために出てきたばかりで、九州なまりの取れない好少年だった。

★河合美智子もまだ幼さが抜けずに「大人になったら何になりたい?」と聞いたら「漫画が好きだから本屋さんになりたい」と言った「本屋さんは本を売る方だから忙しくて漫画読めないよ」とこちらが返すと「そうか……じゃあ、どうしょうかな」と首を傾げ、実にピュアーな女の子だった。

★坂上忍はもう子役として大分活躍していたので、演技も旨く、礼儀正しいまじめな少年だった。

★ある時、用意をさせて、各自自由に何か歌ってみるという課題を出した。

★すると、それまで、もう有名人なので、若干坂上と仲の良かった河合が、永瀬のロック調のカラオケに合わせた歌を聞いた途端、
それに魅入られて、急にそれからは永瀬との距離を縮めたようになった。

★実に乙女チックなさまを小生は興味深く、昨日のことの様に覚えている。

★多分坂上はその時何度目かの挫折感を味わったのではなかろうか?

★映画の公開が1983年2月とあるから、おそらく1982年の夏か初夏だったと思う。

★坂上、長瀬、河合の3人は今では、皆さんご存じのように素晴らしい大人の役者になった。

★そのごく初期に立ち会え、演技指導出来たことは思えば幸せな事である。

★この映画には、原日出子さんや、賠償美津子さん、そして、あこがれの藤 竜也さんが出演されていて、小生も、ほんのちょっと出演しているのですが、話は長くなるので、その撮影での秘話と相米監督の特異な撮り方に関してはまた次回。

★おやすみベィビー、また気が向いたら。

theme : 伝えたいこと・残しておきたいこと
genre : 日記

プロフィール

G.C(グランド・キャノニオン)

Author:G.C(グランド・キャノニオン)
G.Cことグランド・キャニオン・ビリーブ・ミーこと高貴な谷、つまり 高谷信之のこれはブログです。

G.C(ジードットシー)は1972年からNHKラジオドラマを約80本書き、映画、テレビ中学生日記等主にNHkのシナリオを手掛ける。【ラジオドラマ】「枝の上の白色レクホン」では、芸術祭大賞をとり同じく『天主堂』ではギャラクシー賞優秀賞をとる。
また若者たちと劇団ギルドを1999年に立ち上げ、20年続け、37回公演で2018年秋解散した。70代後半に向かい、演劇のプロジェクト、あくなき、小説・演劇・シナリオの挑戦創造に賭けており、また日本放送作家協会の理事は岩間良樹理事長の時代より20年以上続けた。
他に長崎県諫早図書館・壱岐未来座等のシナリオの書き方、演劇の演出講師、指導等もしている。

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